第11話 ヤマダくん、契約する!!

「えーと、収入印紙に……実印に……」
 ゴソゴソとブリーフケースの中身を確認しながら、ヤマダくんがひとりごちた。
「よし、と。……これで大丈夫……だよな?」 少々自信なさげな口調だった。何やら重大な決意を秘めた顔つきで、ブリーフケースのジッパーを音を立てて閉じる。どうやらこれで準備は完了のようだった。
 ふう、と息をつくと、ヤマダくんはサイドテーブルの卓上カレンダーにチラリと目をやった。

 ――30歳の誕生日まで、あと3日。

 どうやら1年前の誓いを守れそうだ、と無意識に自己満足の笑みが浮かぶ。もっとも、1年前に漠然と思い描いていた未来予想図とはずいぶん違ってしまっているが……。
(いやいや、1年前どころの話じゃないぞ……?)
 ヤマダくんは自分自身の感慨に、思わずセルフツッコミを入れる。
(ほんの1ヶ月前には、あの物件を買うことになるとは思ってもいなかったしなぁ……)

 なんだかんだで、ヤマダくんが本格的に物件探しを始めてから3ヶ月余りが過ぎていた。ビジネスパートナーであり、彼女の父親でもあるワタナベ氏に対しては、つい1ヶ月ばかり前、「新築で探してみたい」と提案したものの、いざ探すとなるとこれは中古以上に厄介なことがわかった。なにしろ――立地条件のいい土地はめったに出回らないのだ。
 考えてみれば当たり前の話である。駅から近く、周辺は開けていて賑やかで、治安も良い……そんな、ヤマダくんの探しているような「誰が見ても条件のいい土地」を所有していたら、更地にして遊ばせておくような人間はいない。なにしろ、毎年の固定資産税だってバカにならないのだ。だから、たいていはアパートや借家がすでに建てられているし、さもなければ駐車場になっている。ここで問題なのは、そんな好立地に収益物件を持っているような地主は、基本的に土地を手放す気がないということ。再開発などでまとめて売却が見込めるというなら話は別だが、戸建の30〜40坪を分割で、となるとまず無理だろう。
 もちろん、よくよく探せばそういう土地がないこともないのだろうが……さすがにケタが違う。ヤマダくんどころか、ワタナベ氏でもおいそれとは手が出せない一等地ばかりだ。
 それに、ワタナベ氏はこんなことも言っていた。

「10億の土地が1億で売りに出たとしたら、絶対に買ってはいけません。それは地価が暴落したのではなく、本来の地価が一時的に暴騰していた異常値と考えた方がいい。もともと1億の価値しかない土地に1億注ぎこむのは、賢い買い物ではありませんね」
 ワタナベ氏に言わせれば、2〜3億円の価値のある土地を5000万円以下で入手するくらいでないと利益は見込めないものらしい。最悪の場合、事業に失敗しても売却益でトータルプラスに持っていけるということなのだろう。

 ともあれ、新築という方針はいったん棚上げにして、ふたたび手広く物件探しを始めた矢先――ヤマダくんは、思いがけない掘り出し物にめぐり合ったのである。
 場所は、S−線沿線のH−駅から徒歩8分ほど。H−駅は東京郊外だが、23区に隣接していて、都心のターミナル駅まで20分前後だからじゅうぶんに通勤圏内といえる。駅前には大手スーパーや図書館があり、現地までの道のりは平坦で、銀行やコンビニなどの生活インフラも充実している。
 立地が申し分ないうえに、上物がまた理想的だった。いや、“上物”などといったら失礼に当たるかもしれない。建物は築2年弱の2階建て住宅で、建坪は約30坪。売主は、この家が売れ次第引っ越したいという要望らしく現況では居住しているため、リフォーム工事前というのも好都合だった。自宅用にリフォームされた物件をシェアハウス用に再リフォームするのでは二度手間だし、ムダな費用もかかる。これで価格がギリギリ3,000万円台に収まるというのだから、まさに条件ぴったりの物件だった。おまけに……。

「2世帯住宅、ってのがまさに理想的なんですよ!」
 現地を内見した帰途、不動産屋のクルマの助手席で、ヤマダくんはすっかり興奮して後部座席のワタナベ氏にまくしたてた。
「玄関部分は共用ですが、バス・トイレ・キッチンが1階と2階にそれぞれ1つずつ。ね? これなら初期のリフォーム費用が大幅に削減できます」
 シェアハウス化を前提に中古戸建をリフォームする場合、一番面倒なのが水回りの増設工事なのである。一般的な戸建住宅では、これらはたいてい1軒に1つしかない。シェアハウス化するためには2階に大がかりな配管工事が必要になり、この手間と費用がバカにならないのだ。その点、最初から水回りが複数設置されている2世帯住宅なら、各階にシャワールームを増設する程度でじゅうぶんなのであった。
 ヤマダくんの興奮ぶりとは対照的に、ワタナベ氏はオーナー業の大先輩らしく、なおも慎重な態度を崩さないまま、ハンドルを握る不動産屋に2、3の質問を投げかけていたが、やがてにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「……どうやら、具体的に話を進めてもよさそうな雰囲気ですね」

 ――それが、10日ほど前のことだった。

 そこからは、まさしく怒涛の勢いで話が進んでいった。ヤマダくんの実感としては、あれよあれよという間にトントン拍子で話が決まってしまった……そんな気分だった。
 ワタナベ氏は手慣れたようすで(実際、手慣れているのだろうけれど)テキパキと手続きを進めていった。いっぽう、ヤマダくんがしたことといえば、以前セミナーに参加したことのあるシェアハウス運営会社に連絡を取り、事業計画書の書き方のレクチャーを受けたくらいだった。
 ワタナベ氏の信用のおかげでローンの事前審査もあっさり通り、今日これから銀行で正式に売買契約書を交わしに行くことになっているのである。
 取引先銀行の玄関口に立って、ヤマダくんはぐるりと内部を見回した。
(今までの自分とは、違う……)
 わずかばかりの現金を口座に預けていただけの貧乏サラリーマンから、曲がりなりにも賃貸不動産のオーナーに……!
 ヨチヨチ歩きとはいえ、少なくともその第一歩を踏み出したつもりでいるヤマダくん。だが――そんな感慨にふけるには、まだ100万年ばかり早い。ここからが苦労の本番だということを、じつはよくわかっていないヤマダくんなのであった。
(つづく)


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