第27話 ヤマダくん、不安がよぎる

「ただいま〜。いやあ、ひどい目にあったよ……」
 その日――4日ぶりの帰宅のあいさつもそこそこに、アオノさんは盛大なタメ息をついた。
「お帰りなさい。ご無事で何よりでした」
 玄関口で出迎えたワタナベさんは、こちらは安堵の息をつく。ヤマダくんもホッとした顔で胸を撫で下ろしていた。
「日帰りのつもりが、この始末だからね。まあ、いまだに足止めされてる人も多いみたいだから、俺らなんかラッキーだったのかもしれないけど」
 ぼやき続けるアオノさんの背後で、彼女であるフジノさんはたしなめるように静かに微笑んでいる。その、微笑みを目にして。
 ヤマダくんの胸中に、先ほどとは打って変わって不安の影が差していた。

 ――その、4日前の朝。
「里帰り?」
「……ってほどでもないけど、まあ、ね」
 場所も同じ『バーデン-H』の玄関口で、今まさに出かけようとしているアオノさんとフジノさんのカップルに出くわしたヤマダくんは、何の気なしに行き先を訊ねた。声をかけたとき、ふたりの服装が妙にチグハグだったのが無意識に気になったのかもしれない。
 アオノさんは普段通りのラフな格好で、ちょっとそのへんのコンビニまで出かけてくるといった感じ。それに対して、フジノさんの方はえらく気合いを入れてめかしこんでいるように見えた。
「実家の両親にね、ちょっと顔を見せてくるっていうか……」
 アオノさんの説明に、フジノさんもこっくりとうなづく。
 ――なるほど。
 ヤマダくんはそれで納得した。アオノさんのセリフには主語がなかったが、「顔を見せる」というのはアオノさんではなく、フジノさんのことなのだろう。
 彼女を、実家の両親に紹介する。
 その意味するところは、いかに鈍感なヤマダくんにも想像がついた。
 若く見えるが、アオノさんも今年で35歳か、36歳だったか。フジノさんの方はたしか8歳下だといっていたから……そろそろ結婚を意識してもおかしくない年齢だった。
「じゃ、行ってきます。夜には戻るつもりだけど」
「雪、けっこう降ってますよ。気をつけて」
 そういってふたりを見送った後、ヤマダくんは不安げに空を見上げたのだった。

 2週続けて関東地方を襲った豪雪は、夜になっていっそう激しさを増していた。
 埼玉県の奥にあるというアオノさんの実家の辺りは、この雪の影響をモロに受けた。
 案の定電車がストップしたらしく、アオノさんからはその日の夕方、「帰れなくなった」と電話連絡が入った。アオノさんは気楽な実家だからいいが、期せずして彼氏の実家に泊まることになったフジノさんはさぞ緊張していることだろう、と、その夜ヤマダくんはシェアメイトたちと話し合ったものだった。
 翌日も、その翌日も――アオノさんたちは帰ってこなかった。
 なんでも、積雪量は1mを超えていたらしい。
 都心部でさえ一時は電車が止まったくらいだから、帰ってこられないのも無理はなかったのだが――ふたりの不在が続くにつれ、ヤマダくんはひそかに不安を募らせていた。
 ――もしも、このまま帰ってこなかったら……。

 心なしか、他のシェアメイトの間にも不安が広がっているようだった。
 いつも能天気な103号室のスガワラくんや、203号室のタバタさんも妙に元気がない。
 彼らもみんな、同じ思いを抱いているようにヤマダくんには感じられた。
 いうまでもなく、『バーデン-H』のオーナーはヤマダくんである。より正確にいえば、ヤマダくんと、ワタナベさんの父親であるワタナベ氏の共同所有だが、シェアメイトたちにはそこまで込み入った事情は話していない。だから、ヤマダくんがいる限り、『バーデン‐H』は安泰であるはずだった。
 ――それなのに。
「……みんな、不安に思ってるみたいね」
 ふたりきりになったとき、ワタナベさんがそっとヤマダくんにつぶやいた。
「アオノさんはこのハウスの中心、リーダーなんだもの」
「だけど、それでいいのかな……?」
 ヤマダくんの思いは複雑だった。
 たしかに、昨年の夏にアオノさんが入居してくれたおかげで、一時は崩壊寸前だった『バーデン-H』は息を吹き返した。暮れに起こった、メアリー・ワトキンス嬢をめぐる騒動も、アオノさんのおかげで乗り切ることができた。彼がいなければ、今ごろ『バーデン-H』はどうなっていたことか、想像するだに恐ろしい。
 ――けれど。
「アオノさんは入居者のひとりに過ぎない。もし出ていきたければいつでも出ていくことができるし、こっちにはそれを引き止める権利なんかないんだよ?」
 そう――ハウス内に漂っている不安は、「今、たまたま」アオノさんが留守にしているからではないのだ。
 アオノさんは彼女を連れて実家の両親のもとへ出かけた。
 彼女を親に紹介する、ということは、いずれ遠からず結婚の意思があるということを伝えに行った、ということに違いない。
 そして、ふたりが結婚するということは――おめでたい話だし、そのときには心の底から祝福したいと思っているが――いずれ遠からず、ふたりが『バーデン-H』を出ていくことを意味していた。
 いくらシェアハウス住まいのカップルでも、新婚生活をそのままハウスで迎えることはあるまい。アパートでも借りるか、アオノさんの経済状態なら新築マンションくらい買えるだろうが、いずれにせよ、ふたりはハウスを出ていく。
 ――そうなったら、果たして『バーデン-H』はやっていけるのだろうか?
 口には出さないが、それはヤマダくんやワタナベさんだけでなく、他のシェアメイトたちでさえそこはかとなく感じている不安であった。

「実家じゃあ毎日、屋根の雪下ろしや道の雪かき、させられてたからさ。なんかもう、全身筋肉痛だよ〜」
 おどけた調子でぼやいてみせるアオノさんを囲んで、その夜の『バーデン‐H』のリビングは数日ぶりに明るい笑いが戻っていた。笑いの輪の中で、ヤマダくんは何ともいえない、落ち着かない気分を味わっていた。

 ――それから2週間余りが過ぎた、3月のはじめ。
 ついに、ヤマダくんの恐れていた日がやってきたのである。
(つづく)

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