第29話 ヤマダくん、別れの朝

「……それじゃ、お元気で」
 吹っ切ったつもりではいたにもかかわらず――ヤマダくんの口から出た声は、妙に湿っぽいものだった。寂しくない、といえばウソになる。ましてや、不安がないなどとは口が裂けても言えない。だが、シェアメイトとの関係はもともと一期一会、ひとつ屋根の下で家族も同様に暮らした日々も、いつかは離ればなれになるのが前提条件だった。ヤマダくん自身がかつて過ごしたハウスから“卒業”したように、そして、これまでにヤマダくんのシェアハウス『バーデン-H』から巣立っていった、決して少ないとはいえないシェアメイトたちのように。それが、アオノさんたちであっても例外ではなかった。
「また、いつでも遊びにきてくださいね!」
 ヤマダくんよりはよほどしっかりした口調でそう告げたのはワタナベさんだった。
「そのうち、“OB会”でも盛大にやりましょう!」
 割り切ってサバサバした言葉は103号室のスガワラくんだ。そういう彼自身も、夏までには『バーデン-H』を退去するつもりだと語っていた。“OB会”という言い回しは、アオノさんたちだけでなく、自分も頭数に含めての発言だろう。
「おしあわせに!」
「すてきな2世の誕生をお祈りしています!」
 203号室のタバタさんと、4月から205号室に入居したヨシカワさんは、女性らしい気遣いのこもった別離の挨拶を口にする。そう――まだほとんど目立たないが、アオノさんの妻としてハウスを出ていくフジノさんのおなかの中には、ふたりの愛の結晶が宿っているのであった。
「みんな、ありがとう! じゃ、来てくれる人は二次会でまたお会いしましょう!」
 そういって、アオノさんとフジノさん――3週間後には晴れてアオノ夫人となる――のふたりは『バーデン-H』の玄関を出ていった。すでにふたりの荷物は新居へ運ばれており、アオノさんが肩にかけた小さめのバッグだけが荷物のすべてだった。新郎新婦ともシェアハウス暮らしだったため、家財道具のほとんどは新たに買い求めることになるそうだが、そんなこまごまとした雑事も、長い春のふたりにとっては逆に新鮮なのだという。
 アオノさんの別れ際の言葉通り、シェアメイトの何人かは3週間後の挙式のあと、二次会に招待されている。なにも、これが今生の別れというわけではない。けれど――。
 ヤマダくんたちは言いようのない寂寞とした思いにとらわれて、ふたりの背中が見えなくなるまで黙って見送っていた。

『バーデン-H』の事実上のリーダーであったアオノさんが退去したことで、ヤマダくんは名実ともにハウスの中心としての役目を担うことになった。それはまあ、いい。もともとオーナーなのだから、そうなるのはむしろ自然なことだろう。年齢的にも今のところ最年長だし――今後の入居者によっては、必ずしもそうではなくなるかもしれないが――当然ながらハウスの最古参メンバーでもある。じっさい、アオノさんが入居するまではヤマダくんがリーダーとしてハウスを切り盛りしてきたのだ。
 しかし、一度気楽な立場を味わってしまうと、なかなか元には戻れないのが人間というものだ。アオノさんたちが退去して3日目も経つと、ヤマダくんは早くももやもやした感情に悩まされることになった。
「ヤマダさん、こないだお願いした件なんですけど……」
 そう言ってきたのはタバタさんである。
「え? あ、えっと、ゴメン。なんだっけ?」
「もう、やだなぁ、明日のゴミ当番ですよ。私、今夜は帰れないんで、誰かと交替してくださいって頼んどいたじゃないですか」
「あ、ああ……そうだったっけ? ウン、わかりました。じゃ、オレかワタナベさんが……」
 そう言いかけたとたん、当のワタナベさんが会話に割って入った。
「あら、ダメよ。明日は会社の早朝ミーティングじゃない。早めに出ないと」
 月に一度の早朝ミーティングの日には、7時30分までに会社に着いていないといけない。この日はハウスを出るのが6時20分頃になり、シェアメイトの中にはまだ眠っている人もいるのである。
「うーん、そっか。じゃあ、スガワラくんにでも頼んでみるか……」
 その場はそう言ってみたものの、あとで確認するとスガワラくんも都合が悪いという。
「すいません、明日はちょっと……来週ならよかったんですけどね〜」
 理由は聞かなかったものの、そんなふうにマトモに断られてしまっては無理には頼めない。けっきょく、ゴミ出しは次の週まで延期することにしたが、今度は平日に頼んでいる清掃業者から「生ゴミが溜まっている」との苦情が……。ゴミ出しはシェアメイトでやりくりすることにしているので、担当外の業務を押しつけられた格好の清掃業者にしてみればおもしろくないのだろう。融通が利かない……と思わずムッとしたものの、こちらに非があるのだから仕方がない。
 そんなこんなで、大きなトラブルこそなかったものの、日常のこまごまとしたもめごとがしょっちゅう持ち込まれるようになり、ヤマダくんはヘトヘトになっていた。

「今まで、こ〜んな細かいことまで、みんなアオノさんに頼りきりだったんだなぁ……」
 深夜、リビングのソファにもたれながら、そうしみじみと述懐するヤマダくんだった。
 そんなとき、ソファの背もたれの方からワタナベさんがそっと近寄ってくる。
 と――ペタリ、ヤマダくんの額に冷ややかな感触のものが当てられた。
「ひゃ……ッ!?」
 反射的に手をやると、よく冷えた缶ビールだ。
「お疲れさま」
「……ん」
 缶ビールを受け取り、プシュッ、とさっそくプルタプを開けるヤマダくんに、ワタナベさんは、もう片方の手で持っていた自分の分の缶を合わせる。
「無理しないでね」
「うん……わかってる」
 ほんわかと、いいムードになってきたヤマダくんとワタナベさんではあったが――。
(……これって……もしかして、自分も早く結婚したくなったってことなんじゃ?)
 思わず、ワタナベの顔をまじまじと見つめてしまうヤマダくんであった。
(つづく)

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