第32話 ヤマダくん、取り乱す!?

「……………………」
 何を言うべきか、どういうふうに話したらいいのか判断できないまま、ヤマダくんは無言で目の前の相手を見つめていた。
 H駅前の居酒屋――たまに、ハウスのメンバーや彼女であるワタナベさんと二人で立ち寄る店だった。常連というほどではないが、店の雰囲気はわりあい気に入っている。なにより、障子で区切られた個室席になっていて、周囲のざわめきもそれほど気にならず、落ち着いて話ができるところが良かった。
 個室は4人掛けのテーブル席で、ヤマダくんの隣は空席。向かい側にはふたりの女性が並んで座っていた。ヤマダくんの正面には、203号室のタバタさん。その隣にワタナベさんが座り、さっきからしきりにタバタさんの背中をさすっている。
 タバタさんは、泣きじゃくっていた――。

 ヤマダくんのシェアハウス『バーデン-H』では、つい最近、ちょっとした修羅場があった。
 原因は、もと103号室の住人であったスガワラくんである。
 8月のお盆前後に退去すると前々から言っていたスガワラくんは、お盆の直前になっていきなり「退去はヤメにして、もうしばらくここに住みたい」と言い出した。
 そのとき、すでに103号室の新しい入居者は決定していた。2階建ての『バーデン-H』は、1階が男性、2階が女性という住み分けになっており、1階は101号室にヤマダくん自身が、102号室にはイトウくんという住人が入っている。2階ではまだ202号室が空いているものの、ここにスガワラくんや次に103号室に入る予定のタケカワくん、あるいはヤマダくんが移るというような選択肢は、2階の総責任者であるワタナベさんによって即座に却下された。
「こういうのは、一度でも例外を認めるとなしくずしになっちゃうからね。だいいち、他の女の子がみんな出て行っちゃうよ」
 オーナーであるヤマダくんでさえ、2階へ上がるときはワタナベさんか、他の女性入居者が必ず同行することになっている。それも、個室や廊下の電球を交換するときや、入居者が退去した後の掃除のときなど、2階へ上がる必要がある場合だけに限られていた。
 つまり、『バーデン-H』には男性入居者をもうひとり受け入れる空きはない。スガワラくんか、タケカワくんのどちらかに諦めてもらうしか道はなかった。
 ほんの一瞬、自分が退去してよそに部屋を借りるという選択肢まで思い浮かべたヤマダくんだったが、それでは本末転倒だ。そもそも、アオノさん退去後、ハウスのリーダーは名実ともにヤマダくんであり、ヤマダくん抜きではハウスは回らない。
 残るふたりのうち、どちらに諦めてもらうかといえば……これはもう、スガワラくんしかありえない。新たな住人となるべきタケカワくんには一点の非もなく、それに対してスガワラくんは自分勝手な理由で居座ろうというのだから、そんなことを認めたら道理が通らないではないか。
 1年近くもひとつ屋根の下で暮らしてきたスガワラくんに対する情は感じないでもないが、それとこれとは次元が違う。どう考えても、スガワラくんに出て行ってもらうしかなかった。
 ――その道理を、ストレートに主張しづらくさせた原因はタバタさんの存在だった。聞けば、タバタさんは最近、スガワラくんとつきあい始めたばかりだという。いずれは退去するにしても、できればもうしばらく、このままハウスでいっしょに暮していたい――そうタバタさんに訴えられると、親友であるワタナベさんとしては無下に突き離すことはできないようすだった。
 いささか途方に暮れていたヤマダくんだったが、じつのところ、最終的な結論は決まっていた。スガワラくんには約束通り退去してもらう。問題は、それをどう伝えるかということだけだった。
 悩んだ末に、ヤマダくんはけっきょく、管理会社の担当であるオオシマ女史に泣きつくことにした。以前、何かとトラブルを巻き起こしていたサカグチさんという入居者を退去させるときに使った手であった。当時に比べればずいぶんオーナーとしての経験値を積んだつもりでいたヤマダくんだったが、やはり餅は餅屋ということもある。
 オオシマ女史は期待にたがわずスガワラくんをうまく説得し、予定通りに退去してもらうことができた。
 そこまではよかった。
 だが、その思わぬ副産物として……。

「別れた……?」
「……っていうか、前カノとヨリ戻したっていうか」
 あっけにとられたようなヤマダくんに、ワタナベさんが声をひそめて説明する。
「スガワラくん、ここを出てったあと、けっきょく元サヤに収まっちゃったみたいなのよね。それで……」
 タバタさんは捨てられた、というか、フラれた、というか――とにかく、一方的に別れを告げられたということらしい。
「あいつ……そういう男だったのか……」
 ややお調子者とはいえ、シェアメイトとしては憎めない奴だと思っていただけに、ヤマダくんはなんとなく裏切られたように感じていた。
「で、タバタさんは……?」
「さすがに落ち込んでるわね……」
 ワタナベさんは心配そうに言い、ヤマダくんの顔をそっと見上げた。
「それでね、あの娘を慰めてあげたいんだけど……」
「そりゃ、気持ちはわかるけどさあ……」
 そういうときには、しばらくほっといてやるのも友情なんじゃないか――とヤマダくんが言葉を続けようとすると、
「本人が吹っ切ろうと思ってるならいいんだけど、今はまだ、何も考えられないみたいなの。だから、周りが気分を引き立ててあげないと」
 ワタナベさんは頑として譲らない。そんなこんなで、とりあえず、3人で行きつけの居酒屋へ移動したのだが……。

 あからさまに気を遣っているのが丸わかりの、妙にぎこちない態度のワタナベさんに対して、肝心のタバタさんはといえば――これがぜんぜん普通なのであった。少なくとも、ヤマダくんの目にはそう映った。
 飲み物や料理の注文を取ったり、自分から積極的に話題を振ったりと、まるでこちらが接待されているように錯覚するくらい、タバタさんは甲斐甲斐しく振舞っていた。ころころ変わる話題に、ヤマダくんもワタナベさんもついていくのがやっとだった。
 ヤマダくんが、すでに何杯目だかわからなくなったビールのジョッキに口をつけたとき――。
 ふと気づくと、タバタさんのようすが一変していた。
 みるみるうちに両目に涙があふれ、身を震わせてしゃくりあげるように声を殺して泣きだしたのだ。
(あ、あれ? おれ、何か地雷踏んだっけ……?)
 思わず取り乱すヤマダくんの前で、タバタさんはワタナベさんに背中をさすられながらいつまでもいつまでも泣き続けていた。
(つづく)

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