第36話 ヤマダくん、考え込む……

「2軒目……ですか?」
 オオシマ女史の言葉には、かすかに驚いたような響きがあった。
「ええ……いや、まあ、自分としてはまだ、時期尚早かな? と思ってるんですが……」
 語尾をモニョモニョさせながらヤマダくんが応える。
 ――2月下旬。
正月にワタナベ家へ訪問してから、すでに2ヶ月近くが過ぎていた。
このところ、『バーデン-H』の経営が順調なこともあって、管理会社にはめったに顔を出さなくなっていたヤマダくんだったが、この日は会社を休んで相談に訪れていた。緊急の用件というわけでもないのに、わざわざ有休を取ってまで管理会社に行くというヤマダくんに、ワタナベさんはいささか面白くなさそうなようすだった。帰ったらまた、ひと悶着あるかもしれない。
(うーん……ここしばらく、彼女とは気まずいからなぁ……)
 そんな不安を心に残しつつ、ヤマダくんはオオシマ女史に向かって言った。
「ただ、タイミング……みたいなものもあると思うんですよ」

 あの日――てっきり婚約者であるワタナベさんとの結婚話が出るのかとドキドキしていたヤマダくんは、予想外のワタナベ氏の言葉に思わず絶句した。そんなヤマダくんの反応を見て、ワタナベ氏は一瞬(早まったかな……?)という表情になったが、すぐに破顔して、「まあ、頭の隅にでも入れておいてください」と話題を打ち切ってしまった。その後は、特にその話を蒸し返すこともなく、彼らはワタナベ家の女性陣が腕を振るった料理に心ゆくまで舌鼓を打ったのだが……。
「これからも、娘のことをよろしくお願いしますよ」というワタナベ夫妻の見送りの言葉を背に、ワタナベさんと連れ立って『バーデン-H』へ帰る道すがら、ヤマダくんは黙ってじっと考え込んでいた。
 一方のワタナベさんははしゃいだ口調で、
「お母さん、ヤマダさんのことすっかり気に入ったみたいよ!」
とか、
「お父さんとはもともと気が合ってるみたいだし、そろそろちゃんと考えくれてもいいんじゃない?」
とか、しきりに話しかけてきたが、ヤマダくんはといえば、「うん……」「そうだね……」と生返事ばかり。だんだんワタナベさんの機嫌が怪しくなってきているのにも気づかないようすだった。
 しまいには、
「……もしかして、怒ってる? 勝手に実家に招待したりして……」
 などと、ワタナベさんの方で余計な気を回しだす始末である。
「怒ってなんかいないよ」
「ウソ! さっきからずーっと、黙ったまんまじゃない」
「そんなことは……」
「もういいわよ!」
 と、まあ――ふたり揃ってハウスに帰り着くころには、すっかり険悪なムードになってしまった。玄関で靴を脱ぐと、ワタナベさんは「おやすみ!」と言い捨ててさっさと2階へ上がってしまい、ヤマダくんはヤマダくんでそのまま自室に籠って何やらパソコンで調べごとを始めたのであった。

そのまま、三ヶ日が過ぎて、シェアメイトたちが戻ってきても、ヤマダくんとワタナベさんの冷戦状態は続いていた。ハウス内だけでなく、会社でもふたりは、必要最低限以外は口も利かずにいた。
周囲の人間は――シェアメイトたちも、会社の同僚たちも――そんなふたりのようすに気づいていて、腫れ物にさわるような扱いがしばらく続いた。
2週間ほど過ぎると、ワタナベさんもさすがに折れて、お互いに謝って仲直りし、それからは表面上元のような関係に戻ったが、ヤマダくんはひとりで考え込んでいることが多くなった。新年早々のケンカで懲りたのか、ワタナベさんもしつこく追及することはしなくなったが、ときどき考え込んでいるヤマダくんを遠くから寂しそうに見ていることがあった。
バレンタインデーは土曜日だったので、ふたりで1日出かけることになったが、デートの最中にも、ヤマダくんがしばしばよそ見をすることがあった。むっとしたワタナベさんが恋人の視線を追うと、その先には決まって、売家や不動産屋やモデルハウスがあった。――そのころには、ワタナベさんにもヤマダくんが何を悩んでいるのか、想像できるようになっていた。

 そして、この日――。
 ついに会社を休んで管理会社を訪ねたヤマダくんは、オオシマ女史を相手に「2軒目」の相談を持ちかけたのであった。
「チャンスは今なのかもしれない――そんなふうに思っているんですが、どうでしょうか?」
 オオシマ女史の答えは明快だった。
「その判断は悪くないと思いますよ」
「……本当に?」
「ええ。この業界もここへきて、だいぶ風向きが変わってきました。つい2年ほど前には、はっきり言ってドン底でしたが……」
 2年前といえば、例の「脱法ハウス問題」が騒がれた年だ。消防法違反建築物がクローズアップされ、国土交通省による全国調査が行われた。その結果、多くのシェアハウスに指導が入り、さらに悪名高い「寄宿舎ルール」――事業者が運営するシェアハウスは寄宿舎とする、という内容の技術的助言が通知された。これにより、騒ぎの発端となった「違法貸しルーム」の類が取り締まり対象となったのはいいとして、その風評被害により、シェアハウスそのものが故のない批判にさらされることになったのは記憶に新しい。
 だが、すべてのシェアハウスを寄宿舎に準じて規制するのは、やはり無理があるという業界内外からの意見を受けて、国交省は半年ほどで「寄宿舎ルール」を事実上撤回。さらに、東京都の建築安全条例でも、対象となる建築物の総床面積を100平米以上とする規制緩和が行われており、まもなくさらなる規制緩和が実施される見通しだとオオシマ女史は言う。
「ですから、今なら、やりようによってはうまくいく可能性があります。ただし……」
「ただし……?」
「先々のことはわかりません。特に、再来年には消費税率引き上げが控えていることですしね」
「……つまり」
 ヤマダくんが思わず息をのむ。
「はい。やる、やらないという判断はさておき、もし、やるのであれば――ヤマダさんのおっしゃる通り、タイミングとしては今しかない、と……」
 オオシマ女史の言葉に、ヤマダくんは我が意を得たりとばかりに力強く頷いた。
(つづく)

ログイン

ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失


シェアハウス大家さん
倶楽部(無料)

シェアハウスで不動産投資に踏み出すサラリーマンやOLの皆様を応援する会員制プログラムです。ご登録いただくと各種不動産投資情報やサービスを無料提供致します。
入会申込(無料)