第37話 ヤマダくん、落ち込む……

「できれば徒歩圏。最低でも、2駅区間内で探そうと思ってるんですけど……」
 ヤマダくんの言葉に、ワタナベ氏はうむうむと頷いてみせた。
「じっさい、探してみると、これがなかなか……」
「ま、……そうでしょうねぇ」
 ワタナベ氏は軽く息をついて、ヤマダくんの顔をまじまじと見た。瞼が腫れぼったく、目も赤い。どう見ても寝不足である。言葉にも覇気が感じられないし、背筋も曲がってやや猫背気味である。かれこれ3年前、ふたりで初めての物件探しをしていた当時に比べて、明らかに元気のないようすだった。
「焦りは禁物ですよ。こういうのはやっぱり“縁”ですから、急いで決めようとすると、必ずどこかしらに無理が生じます」
「そういうものかもしれませんが……」
「物件探しには限りません。なにごとも、行き詰まったときには、基本に立ち返るのが大切なことです」
 小さな子供に言い聞かせるように、ワタナベ氏は優しくそう言った。

 正月にワタナベ家を訪問したときに「2軒目」の話を聞かされ、さんざんひとりで悩んだ後に3月には管理会社のオオシマ女史に背中を押され、ヤマダくんはすっかりその気になっていた。だが、2軒目のシェアハウスを持とうと考えれば考えるほど、ヤマダくんはドツボにはまっていた。『バーデン-H』の最寄駅であるH−駅を中心に、S−線沿線の前後2駅区間内で物件を探すという方針は決めていたのだが、どうもこれといった候補が見つからない。3年前に比べて、このあたりの路線価も上がってきており、その分物件価格にも反映している。それは一方で、ヤマダくんの先見の明を示すものでもあるのだが……。
 ワタナベ氏と別れた帰り道、ヤマダくんはふと目についた居酒屋ののれんをくぐっていた。日頃はそんなに飲む方ではないヤマダくんだったが、今夜ばかりは痛飲したい気分だった。
 遅めの夕食代わりに適当なつまみと、ビールの中ジョッキを注文する。ジョッキが空になると焼酎の水割りに切り替え、つまみは追加せずにひたすら焼酎のお代わりを続けた。
 飲みながら「2軒目」について考えをまとめようとしたヤマダくんだったが、いまだにイメージも定かでない「2軒目」のことなど、そうそう考え続けられるはずもなかった。頭に浮かぶのは、確固たるイメージをもった「1軒目」のことばかりだった。
 ――考えてみれば、1軒目である『バーデン-H』を取得したときには、「新築未入居の二世帯住宅」という方向性を定めてすぐに手ごろな物件とめぐり合うことができた。また、物件取得に際しては、ベテランの不動産オーナーであるワタナベ氏にほとんど頼り切りであった。銀行との交渉もスムーズだったし、リフォームやハウスの管理については管理会社におんぶにだっこという状態だった。さらに、『バーデン-H』の運営がなんとか軌道に乗ったのも、有能なハウスリーダーであったアオノさんの力なしにはありえなかった。
 運にも、人の縁にも恵まれた上での成功だったということを忘れてはならない。自分の力など微々たるものだ――ヤマダくんは今さらのようにそれを思い知らされていた。
 2軒目だから、1軒目よりはラクだろうなどと考えたらとんでもないことだ。生まれて初めてのシェアハウス運営を、どうにかこうにか乗り切ってきたことで、知らず知らずのうちに天狗になっていたのではないか? そう思うと、ヤマダくんはいやが上にも落ち込まざるを得ない。
(いったい、この3年間、オレは何をしてきたのだろう……?)

「……お帰りなさい」
 さんざん痛飲した挙句、よろめく足で『バーデン-H』に帰ってきたヤマダくんを、出迎えたのはワタナベさんだった。
 玄関に置かれた時計の針はすでに1時を回っている。いつもなら、とっくに2階の自室で眠っているころだった。深夜まで飲んだくれてのご帰還を咎めるようすもなく、ただただ心配そうな声音がかえって耳に痛い。
「ただいま……」
 気のない声でそう答えると、ヤマダくんは靴を脱ぐためにワタナベさんに背を向ける。と、酔っているせいか、なかなかうまく脱げない。
舌打ちしながら、上がり框に腰かけてヤマダくんが靴と格闘していると――ふいに、その背中にあたたかい感触が伝わってきた。
「疲れてるんじゃないの……?」
 ワタナベさんが、ヤマダくんの背後からそっと抱きついてきたのだ。
「ん……」
「お父さんがね。心配して、電話くれたの」
「……………」
「わたしにも、相談してくれてもいいんじゃない?」
「……でも……」
「わたしじゃ頼りにならないかもしれない。けど、これでもパートナーのつもりなのよ」
(…………ああ!)
 ヤマダくんの脳裏に、ワタナベ氏のアドバイスが甦った。「行き詰まったときには、基本に立ち返るのが大事」と。
 そうだ。この『バーデン-H』の基本をつくりあげたのは、他の誰でもない、ヤマダくん自身とワタナベさんのふたりの力だった。ここまで成功するためには、それはたくさんの人たちに力を借りてきたが、その根っこの部分、基本の基本はワタナベさんとふたりでつくったのだ。ワタナベさんは恋人であると同時に、欠かせない大切なパートナーなのだ。
 その事実を思い出したとき、ヤマダくんは、ひとりで何もかも抱え込んで悩んでいたのがバカみたいに感じられた。2軒目がどうのこうの、あれこれ悩むのであれば、ふたりで悩まなければ意味がないのだ、と。
 ヤマダくんは振り向き、ワタナベさんの顔を正面から見て、言った。
「……長い話になるよ。明日も会社があるんだし……」
「じつは、明日の有休を申請しといたの。あなたの分もよ。たまにはゆっくり休養しなきゃと思って……」
 答えるワタナベさんの瞳は、涙に潤んでいた。
(つづく)

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