第45話 ヤマダくん、開業する!

「えー、それでは『バーデン-K』の新装オープンを祝って……乾杯!」
 緊張にかすれた声で、ワタナベさんが乾杯の音頭を取った。
「かんぱーい!」
 女性ばかりの華やかな声が口々に唱和する。その中で、さすがに少々居心地悪そうな表情を浮かべたヤマダくんも小声でそっと「乾杯」をつぶやいた。
 2016年3月1日――この日は、ヤマダくんとワタナベさんにとって、『バーデン-H』に続く「2軒目のシェアハウス」が無事開業にこぎつけた、記念すべき日となった。ハウスの新装オープンを記念して、身内の人間だけで開かれたささやかなパーティの出席者は、ワタナベさんをはじめ全員が女性。唯一の男性参加者であるヤマダくんは、隅っこの席で壁にもたれながら、和気あいあいとしたパーティのようすを一歩引いたところから観察していた。誰かが話しかければ返事はするものの、基本的には黙りこんだまま、ときおり思い出したようにグラスを口に運ぶ。ヤマダくんの脳裏には、この日を迎えるまでのさまざまな出来事が浮かんでは消えていた――。

 K−駅から徒歩10分、サクライさんが経営する古民家再生シェアハウスを居抜きで買い取るという話を、ヤマダくんが婚約者のワタナベさんから初めて聞かされたのは、昨年の12月上旬のことだった。ヤマダくんにしてみれば、半年以上前に一度見学に訪れたきりの物件であり、ワタナベさんがそこを買うという話をひそかに進めていたということは、文字通り寝耳に水だった。ひどく驚きもし、また混乱もしたが――しかし、当事者なのにギリギリまで蚊帳の外に置かれていた、という怒りは不思議と湧いてこなかった。
 客観的に見れば、婚約者が自分に黙って、何千万円というお金の動く話を勝手に進めていたことになる。人によっては大ゲンカどころでは済まず、別れ話になっていてもおかしくない。だが――。
(おれがもっとしっかりしていたら、彼女ももっと早くに相談してくれていただろう……)
 その、忸怩たる思いがあった。自分ひとりでストレスを抱え込んで呑んだくれたり、不動産屋に当たり散らしたり、あるいは国勢調査やマイナンバーに振り回されてバタバタしたり……今までそんな醜態をさんざん見せつけてきたのだ。ワタナベさんは、そんなヤマダくんの負担を少しでも減らそうと、懸命に支えてくれたのである。

 サクライさんの「よんどころない事情」――ちなみに、これは別にヤクザがらみの借金とか、そういったヤバい話ではなく――「離れて暮らしている彼女の弟さんがリストラに遭ったので、子供の学費を貸してほしいと相談された」ということだった。高校三年生だという甥っ子は、独身のサクライさんにとって我が子も同然の可愛い存在なのだという。「けっこう優秀な子でさ、じつは大学の推薦、もう決まってたのよ。そんなときに弟が……。だから、何とかしてやりたいと思ってさ。お金は来年の3月までで間に合うんだけど、大学側には年内に連絡しなくちゃいけなくて」とサクライさんは語っていた――とやらを聞く前から、すでにヤマダくんは覚悟を決めていた。
 ひと通り話を聞くと、その場ですぐに細かい条件の打ち合わせに入り、翌日からヤマダくんとワタナベさんは積極的に動き始めた。会社の繁忙期は続いていたが、ふたりで協力してなんとか時間をやりくりした。『バーデン-H』の共同経営者であるワタナベ氏や、管理会社のオオシマ女史にも相談したものの、資金調達はヤマダくんの名義で銀行から融資を受けることにした。
 銀行へは、会社の半休を利用してヤマダくんがひとりで行ってきた。3年前の『バーデン-H』の資金調達のときは、ほとんどワタナベ氏の横で黙ってうなづいているだけだったことを思えば、ヤマダくんもずいぶん成長したものだ。もっとも、当時と今ではヤマダくんの社会的信用も大きく違ってきていたし、銀行側のシェアハウスに対する理解度が格段に向上していたのだが。

 そんなこんなで、年末年始は慌ただしく過ぎてゆき、1月末には無事、物件の引き渡しが完了した。ハウスの名称は、最寄駅から『バーデン-K』と改めた。このネーミングは、将来的に、さらに多くの『バーデン-○○シリーズ』を展開していこうという決意の表れでもあった。今回は「古民家再生シェアハウス」というコンセプトでもあり、また、もともとシェアハウスとして使われてきた物件であったため、改装は看板など最小限にとどめた。その分、開業資金はかなり圧縮することができた。
 昨年末にサクライさんが売却を進めていたころ、何人かの入居者は退去していたのだが、新たに入居者募集をかけると希望者が殺到し、あっさり満室となった。そのうちのひとり、ササキさんという女性は、もともとサクライさんのハウスに住んでいた「出戻り」である。ハウスを売却すると聞いて一度は引っ越したものの、よっぽどここの環境を気に入っていたのだろう。名称を変えて存続するということがわかると、すぐに引っ越し先を引き払ってきたという。
 ヤマダくんにとって少々意外だったのは、前オーナーのサクライさんがそのまま一入居者としてハウスに残ることを希望してきたことだ。
「だって、今さら引っ越すのも面倒だし。家賃を払えば誰が住んでも同じでしょ?」
 正直なところ、ヤマダくんとしては迷いもあった。以前のオーナーがそのまま居残っていたのでは、何かとやりにくい面があるかもしれない。だがその一方で、ハウスのことを隅々まで知り尽くしている人間がリーダーとして残ってくれたら、シェアメイトたちも安心して暮らしていけるのかもしれない。はたしてどちらが正解だろうか……。

 ワタナベさんに相談すると、彼女は笑いながら即答した。
「あら、いいんじゃない? 私としても、サクライさんがいれば何かと頼りになるし」
「でも、たとえばキミの言うこととサクライさんの言うことがもし違っていたら、シェアメイトたちもどちらに従えばいいのか混乱するだろうし……」
「そこはよく相談しておけばいいじゃない。サクライさんなら大丈夫よ。それに……」
「?」
「彼女が残ってくれた方が、あなたにとっても都合がいいはずよ」
 ワタナベさんはいたずらっぽく笑う。
 ヤマダくんは一瞬、考え込んだ。
(おれにとって都合がいい? 何のことだ……?)
 まだ要領を得ない表情を浮かべているヤマダくんに、ワタナベさんが言った。
「……サクライさんが残ってくれたら、私、あっちへ引っ越さなくてもいいんじゃない?」
「え…………?」
 もともと、2軒目の女性専用シェアハウスには、ワタナベさんが住み込む予定だった。そうなれば当然、『バーデン-H』の201号室の部屋は引き払うことになる。彼女が引っ越した後の、『バーデン-H』の2階の管理を誰に任せるかは、ヤマダくんにとっても頭の痛い問題だった。だが、ワタナベさんが引っ越さずに済むなら、その悩みも解消される……。
「もちろん、最初の半年くらいは週替わりであっちの部屋に泊まるつもりだし、その後も月に何日かはあっちへ顔を出すことになると思うけど……」
 ワタナベさんが引っ越さない、ということは――何より、これからも彼女とひとつ屋根の下で一緒に暮らしていける、ということなのだ。
 そのことをようやく理解して――ヤマダくんの顔には、いささかだらしない笑みが浮かんでいた。
(つづく)

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