第50話 ヤマダくん、またもや不安……

 玄関のドアを開けると、ぷ〜ん、とカレーの匂いが漂ってきた。誰かの今夜の夕食だろう。食事を済ませてきたからよかったものの、さもなければ帰宅早々、空腹感に苛まれていたかもしれない。飯テロ、とかいう奴だ。
 玄関で靴を脱いでいると、リビングの会話が壁越しに漏れ聞こえてきた。
「へ〜、××××に会ったんだ!」
 調子っぱずれの歓声を上げているのは102号室のイトウくんだろう。応える言葉の内容はよく聞き取れなかったが、甲高い声質から誰がしゃべっているのかはすぐにわかった。202号室のマナセさんに違いない。
「それじゃ、△△△△は? □□□□もいたんじゃない?」
 イトウくんの矢継ぎ早の質問に、マナセさんがまた何ごとか応答する声がした。固有名詞はよく知らない名前ばかりのようだったが、何についての会話かはそれで大方察しはついた。
(またか…………)
 脱いだ靴を揃えながら、ヤマダくんは声に出さずにそっとため息をついた。

 ヤマダくんのシェアハウス『バーデン-H』では、先日入居したばかりのマナセさんが連日、古参シェアメイトたちの好奇の目にさらされていた。
 20歳そこそこの見た目も可愛い女の子というだけでなく、マナセさんはアニメ声優志望の専門学校生であり、このところ週に1〜2度のペースで新作アニメのオーディションに参加しているということだった。オーディションには、彼女のような新人からベテランまで、毎回多くの声優が参加している。中にはN●Kの「紅白歌合戦」に歌手として何度も出場しているような声優もいるし、ドラマに役者として出演している――顔出し、というらしい――声優もいて、深夜のバラエティ番組などで見かけることも珍しくない。
 隠れアニメファンであったことをカミングアウトした203号室のタバタさんによれば、最近のアニメ声優は男女ともにアイドル化しているといい、本業である声の演技だけでなく、見た目はもちろん歌唱力やトーク力も必須なのだという。そうした「芸能人」たちと言葉を交わしたり、身近に接したりすることの多いマナセさんは、『バーデン-H』の中ではすでにアイドル視されていた。
 それはいい――というより、仕方がない。マナセさんが自分で選んだ道だし、将来売れっ子の声優になるつもりであれば、シェアメイトたちにちやほやされるくらいは通過儀礼だろう。だが――とヤマダくんは考えずにはいられなかった。
(珍しがられているうちはいいが、この調子で特別扱いしてると、彼女の居心地が悪いだけじゃなく、ハウス内の空気も悪くなるんじゃないか……?)

 自室である101号室にバッグと上着を置いて、ヤマダくんはリビングに顔を出してみた。
「ただいま――」
「あ、お帰りなさーい!」
 元気のいいアニメ声でマナセさんが真っ先に応えると、彼女と向かい合うソファでこちらに背を向けていたイトウくんと103号室のタケカワくんは、振り向きもせず「お帰りー」とテンションの低い声を投げてくる。リビングにいたのはその3人だけ。いつもはマナセさんをガードするようにくっついている女性陣は、今日は姿が見えなかった。
「……他のみんなは?」
「あ、ワタナベさんはお風呂中ですぅ。タバタさんとヨシカワさんはまだ帰ってないみたいでぇ……」
 ヤマダくんの問いに答えたのはまたしてもマナセさんで、男性陣2人はあいかわらず振り向きもしない。もっとも、2階は女性専用フロアで男子禁制であり、女性陣の動向を把握しているのは彼女だけなのだから当然かもしれないが。名前の挙がらない204号室のスギシタさんはたぶん自室にいるということだろう。
 時計の針は10時過ぎ――タバタさんたちはいつもならとっくに帰っているころだったが、まあ、大人の女性がこの時間帯に出歩いているからといって心配することもあるまい。
 自分もひとっ風呂浴びてこようかと、自室に引き上げかけたヤマダくんに、
「そうだ! ヤマダさん、晩ご飯は?」
 マナセさんが呼び止める。
「ん? さっき外で済ませてきた」
「な〜んだ。今日はカレー、たくさんつくっちゃったんですよぉ。明日の朝でもいいから食べてくださぁい」
「あ、ああ、ありがとう」
 朝からカレーかよ……と内心ゲップの出る思いを押し隠し、ヤマダくんはかろうじて礼を言った。『バーデン-H』を開業して3年になるが、これまで過去の入居者たちはめいめい勝手に食事を摂るのが習慣だった。シェアメイト同士で食卓を囲むのは月例のパーティくらいのものだったが、マナセさんはときどき、平日にもこうして食事を誘ってくる。以前は友人とルームシェアしていたそうだから、たぶんそのころからの習慣なのだろう。
「すっげえ美味しかった! またつくってよ」
 すかさず応じたタケカワくんは、今夜の夕食をご馳走になったとみえる。
「おれも明日、楽しみにしてるから!」
 負けじと言うイトウくんは食べ損ねたようだが、明日の朝食を約束しているらしい。
(――これもまあ、いいことではあるんだろうけど…………)
 ヤマダくんはそう思わざるを得ない。シェアメイト同士でふだんの夕食や朝食をともにする。それは、今までの『バーデン-H』の習慣にはないことだったが、顔ぶれが入れ替われば習慣も変わる。それでみんなが仲良く過ごせるなら、オーナーとしては言うことはない。
 しかし――と、ヤマダくんは内心不安を覚えていた。

「――それじゃ、そろそろお部屋に引き上げますぅ。おやすみなさーい!」
 気がつくと、マナセさんはそう言って立ち上がっていた。ヤマダくんもそれを潮に自室へ戻り、イトウくんとタケカワくんも口々におやすみを言って引き上げてゆく。
 着替えを手にバスルームへ向かったヤマダくんは、階段をとんとんとんとん……と上がっていくマナセさんの足音を耳にしながら、ふたたび考え込む。
(マナセさんが加わったことで、ハウスの雰囲気が変わりつつある。良いほうに変わるのなら大歓迎だが、もしも悪いほうに変わっているとしたら……?)
 今夜に限って、女性陣がリビングに姿を見せていないことも気がかりだった。男女共用とはいっても、『バーデン-H』の住人は女性が多数派を占めている。ハウスの雰囲気を決定するのはやはり女性だ。2年半ほど前、ハウスの雰囲気が一時的に悪化したときも、やはり女性入居者が原因だった……。
 良くいえば天真爛漫なマナセさんだが、若いだけに、本人は無意識のうちに他の女性入居者の神経にさわる言動もあるかもしれない。一方、男性陣は早くもマナセさんの取り巻き化しつつある。アイドルとしてちやほやしているうちはまだいいが、それがマナセさんをヘンに勘違いさせ、増長させることにでもなったら……。
 シャワーの熱い湯を浴びながら、ヤマダくんは不安の種が膨らんでいくのを感じていた。
(つづく)

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