第51話 ヤマダくん、狼狽する!

 玄関先の常夜灯がチカ……チカ……と点滅しているのが目についた。そろそろ寿命らしい。次に交換するときはLED電球に替えようか……と考えていたのを思い出し、ヤマダくんは内心ちょっと憂鬱になった。
 今夜も終電帰りだった。ヤマダくんの本業はしがないサラリーマンだが、勤め先の会社は11月頭から12月上旬にかけて例年通り繁忙期に突入していた。連日残業が続き、休日出勤もしばしばで、祝日である前日も半日出勤していた。せめて、明日からの週末はのんびり過ごすつもりでいたのに、このようすでは、都心の家電量販店までLED電球を買いに行くハメになりそうだ。そうと知っていれば、昨日会社帰りに寄っておいたのに――と、ついつい詮ないことを考えてしまう。
 金曜日の夜とはいえ、さすがに午前1時過ぎとあって『バーデン-H』はひっそりと静まり返っていた。ポケットからキーケースを取り出し、途切れがちの灯の下で鍵穴に挿し込もうとする。そのとき――。
 ガチャリ――。
 玄関のドアが、内側から開けられた。

「あ……! お、おかえりなさぁい」
 思いがけないタイミングで、ヤマダくんと玄関先で鉢合わせしたのは、202号室のマナセさんだった。部屋着にしているピンクのスウェットの上下に薄手のカーディガンを羽織っただけで、足元はサンダル履きである。今から出かけようという恰好ではない。
「ああ、ただいま。……どうしたの、こんな時間に?」
「へ? あの、ちょっと……そこのコンビニまで」
 鉢合わせした瞬間に顔をそむけていたマナセさんは、そのまま逃げるようにパタパタと走り去っていった。あんな恰好じゃ寒いだろうに――それに、カギは持って出たろうか? このまま施錠してしまうと、後で戻ってきた彼女が締め出されてしまうんじゃないか?
 とっさにそう思ったヤマダくんは、手にしたバッグだけ玄関に放り出すと、いったんカギを締めてマナセさんの後を追うことにした。
(……それに、ちょっと気になることがある――)
 追いかけながら、ヤマダくんはいささかキナくさいものを感じていた。反射的に顔をそむけたとはいえ、チカチカする常夜灯に一瞬映しだされたマナセさんの頬に、涙の跡が見えたように思えたからだ。

 ――アニメ声優志望の専門学校生、マナセさんが『バーデン-H』に入居して3ヶ月近くが過ぎていた。当初はやたらに物珍しがられ、ヤマダくんを除く男性陣からはアイドル扱いでちやほやされていたマナセさんだったが、さすがに皆、慣れてきていた。けっきょく、来年1月スタートの新作アニメ番組ではひとつもレギュラーを取れなかったらしく、10月を過ぎるとオーディションの話題も下火になっていた。本人はその次の、来年4月にスタートするという「春アニメ」に向けて気持ちを切り替えて頑張っていたが、「有名人と会った」云々という話もすっかりなくなり、良くも悪くも落ち着きを取り戻しているようだった。
 とはいえ、マナセさんは必ずしも「常に注目を浴びていなければ気が済まない」という困った性格の持ち主ではなく、最近は生活費稼ぎのバイトに精を出していた。つまり、他の先輩シェアメイトからやっかまれたり、いじめられたりするような状況ではなかったはずなのだが……。
(………まあ、女心はわからないからなぁ……)
 彼女、というより婚約者として、かれこれ4年もひとつ屋根の下で暮らしているワタナベさんのことでさえ、ときどき気持ちがわからなくなるヤマダくんである。ひとまわり近くも年下の女の子が、内心どんなふうに感じて過ごしているかなど、見当もつかなかった。

 100mも行かないうちに、ヤマダくんはマナセさんの姿を見つけていた。人気のない深夜の路上を、とぼとぼと歩いている。驚かせないように速度を落として近づきつつ、ヤマダくんは背後からそっと声をかけた。
「寒いだろ……?」
「…………」
「いくら近所といっても、そんな恰好で,こんな時間に出歩くもんじゃないよ」
「…………」
「何があったかは聞かないけど――気分が少し落ち着いたら、ハウスに帰ろう」
「…………ヤマダさん」
 隠しようのない涙声で、マナセさんは振り向きもせずに言う。
「わたし……帰ってもいいんですか…………?」
「?」
 予想外の言葉だった。「何があったかは聞かない」などと言った舌の根も乾かないうちに、ヤマダくんは事情を聞きたくなってきた。だが、さすがに自分から根掘り葉掘り質問するのは気が引けるのか、ヤマダくんは黙って水を向けることにした。
「わたし………わたし………ッ!」
「……?」
「わたし、あのおうちに帰ってもいいんでしょうか――?」
 いったい、何の話だ――とまどいつつも、ヤマダくんは次の言葉を待つことにした。
 と。
 深夜の路上で、先を行くマナセさんがくるり、身体ごと向き直った。街灯が逆光となって顔はよく見えなかったが、おそらく目を真っ赤に泣き腫らしているに違いない。
「当たり前だろ……? あそこは、キミの家でもあるんだから」
 ヤマダくんは、努めて平静な声で言った。そのじつ、内心は少々上ずっている。どうにも不穏な空気だった。
「でも……でも……」
 いやいやをするように首を左右に振る。感情を高ぶらせている年下の女の子を前にして、ヤマダくんは正直、持て余し気味だった。事情がわからないから何とも答えようがないが、事情を聞くのも何だか怖い気がしてきた。厄介ごとを避けようとする本能と、『バーデン-H』のオーナーとしての責任感とが、ヤマダくんの心の中でせめぎ合っていた。その、刹那――。
「………ヤマダさぁん!」
 ふいに、マナセさんの身体が、ヤマダくんに激しくぶつかってきた!
 反射的に受け止めようとしたヤマダくんの腕は、マナセさんの背中を抱くような恰好になる。そのまま、マナセさんはヤマダくんにすがりついていた。
 ヤマダくんの胸に顔を押しつけながら、マナセさんは身も世もなく泣きじゃくりはじめた。20代初めの若い女性の柔らかい感触が、ヤマダくんの両腕の中にあった。
(ど、どうすればいいんだ――!?)
 ヤマダくんはすっかり狼狽していた。脳裏に、冷ややかな目で睨みつけるワタナベさんの顔が浮かぶ。幻の婚約者に向かってくどくどと言い訳を並べながら、突き放すこともかなわず――ヤマダくんは、マナセさんの肩を抱くようにして深夜の路上に立ち尽くしていた。
(つづく)

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