第54話 ヤマダくん、胸を撫でおろす

「それじゃ、お世話になりましたぁ〜!」
 無邪気な……というより、むしろ能天気と言ったほうがよさそうな、あっけらかんとした別れの挨拶だった。言ってることは殊勝なのだが、声音はいつもと変わらない、妙に語尾の上がるアニメ声。ぺこり、と頭を下げると、屈託のない笑みを向けてくる。
「ん。……頑張ってね。夢が叶う日を祈ってるよ」
 ぎこちない笑顔を浮かべながら、ヤマダくんはかろうじて無難なフレーズを絞り出した。言いたいことは山ほどある。聞きたいこともいろいろある。とはいえ……今はそういったことを口に出すべきではないとわかっていた。
 ――『バーデン-H』の玄関口であった。ヤマダくんの背後には、居合わせた何人かの入居者たちが見送りに立ち会っている。開設以来、何度となくくり返されてきた風景だけに、誰の顔にも湿っぽさはない。
「じゃあね!」「身体に気をつけて……」「元気で」「また遊びにおいてよ」
 かつてのシェアメイトたちが名残惜しそうに手を振り、口々に別れの言葉を告げるなか――もと202号室の住人だったマナセさんは、軽やかな足取りで歩み去っていった。

 ヤマダくんが高熱を出して会社を休んだ、あの日――。
 お粥の土鍋を持って101号室を強襲したマナセさんに、しかし、ヤマダくんはきっぱりと告げたものである。
 気遣いはうれしいが、こういうことをしてはいけない――と。
 シェアハウスとはいえ、個室の中ではそれぞれがひとり暮らし。いくらひとつ屋根の下で暮らしているといっても、男性の個室を訪ねるということは、つまり、ひとり暮らしの男性の部屋を訪れるということと同じなのだ。
 その時点では、マナセさんがこういうデリケートな問題に無頓着なだけと思っていたヤマダくんだったが、彼女の回答は意表を突くものだった。
 自分はヤマダさんのことが好きで、特別な関係になりたいのだ――というような内容を、えらく堂々と言ってのけのである。
「えーーーっと…………あのさ、マナセさん?」
「はい?」
「……おれと、ワタナベさんのこと………誰かから聞いてない?」
「はぁ……?」
「いや、だからさ…………おれとワタナベさんが、その……婚約してることとか……?」
 わざわざ「婚約」というところをアクセント強めに発声する。「つきあってる」という表現じゃインパクトが弱いかも、と考えたヤマダくんだったのだが……。
「あ、それぇワタナベさんから聞きましたけどぉ………?」
(――聞いてるのかよ!? しかも、本人の口から?)
 ヤマダくんの咽喉の状態がまともだったら、即、大声でツッコミを入れていたに違いない。実際には、むせて数分間激しく咳き込んだ後、弱々しくこう訊くのが精いっぱいであったが。
「…………どう、聞いてるの?」
「え? その……“親が決めたいいなずけ”ってぇ…………」
 ――おいおいおいおい!!
 今度こそ、ヤマダくんは大声で叫びだしたくなった。
 よりにもよって、“親が決めたいいなずけ”とは……。なまじ、100%ウソだとも言えないあたりが余計始末に悪い。
 事実関係を整理して正確に言えば――まず、ヤマダくんとワタナベさんは同じ会社に勤める同僚である。所属部署は違うが、一応、ヤマダくんのほうが先輩であり、役職も年齢も上だ。ふたりが恋人としてつきあいはじめたのは、ヤマダくんが『バーデン-H』のオーナーになる1年近くも前のことになる。
 その後、ヤマダくんはワタナベさんの父にして不動産オーナーとしては大先輩でもあるワタナベ氏に引き合わされ、物件探しから不動産購入にまつわるもろもろの手続きに至るまで懇切丁寧なレクチャーを受けた。のちに『バーデン-H』としてリフォームされることになる新築未入居の2世帯住宅を購入する際には、ワタナベ氏はローンの保証人だけでなく、頭金まで出資してくれた。そのお蔭で、ヤマダくんは頭金用にと貯めていた自己資金をリフォーム費用に回すことができ、すんなり開業にこぎつけることができた。
 こうした一連の流れの中で、いつの間にやらワタナベ氏は『バーデン-H』の共同経営者となり、娘のワタナベさんとの関係はたんなる“カレカノ”から“婚約者”へと昇格(?)したのである。

 ふたりが結婚を具体的に意識するようになったのは父親の影響が大きいから、“親が決めたいいなずけ”という言い方はあながち間違いではない。おそらく、ワタナベさんとしても、いささかの照れ隠しの意図もあって――マナセさんは例によってどストレートに質問をぶつけてきたのであろうし、それに対して真正面から答えるのはやはりこっ恥ずかしいものだ――そういう言い方をしたのだろう。
 だが――残念ながら、決定的に相手が悪かった。
 ヤマダくんが疑っているようにアスペルガー症候群なのかどうかはともかく、どうやら空気の読めないらしいマナセさんは、ワタナベさんが“親が決めたいいなずけ”といった言葉をそのまま受け取ってしまった。そして、わざわざそういう言い回しをしたワタナベさんの感情についてはまるで斟酌せず、何故か、言葉の意味を(自分にとって都合よく)解釈してしまったようなのだ。
 “親が決めたいいなずけ”=本人に恋愛感情はない、と――。そして、そこから妙な妄想がふくらみ、勝手に暴走して手がつけられなくなっていく。

 「ワタナベさんはヤマダさんのことが好きじゃない」「なのに親の言いつけで結婚しなくてはいけない」「そんなのイマドキありえない」「なんとか助けてあげたい」「わたしはヤマダさんもワタナベさんも両方好き」「なら、わたしがヤマダさんとつきあっちゃえばいいんじゃない?」「そうだ、いっそ結婚しちゃえばいい」「そうすればワタナベさんも、好きでもない相手と結婚しなくて済む」「そうすればみんな幸せになれる」…………。

 あきらかに異常な思考に陥っているのだが、マナセさん本人だけがそれに気づいていない。
(――これが“メンヘラちゃん”って奴か……)
 発熱のせいだけでなく、ヤマダくんは背筋に悪寒を感じていた。

 ――この事態が好転したのは数日後のことだ。
 9月からスタートする「秋アニメ」のオーディションで、マナセさんは念願の合格を勝ち取ったのだという。
「……といっても、ちゃんと名前のある役じゃなくてぇ、『女生徒』とか『OL』とか、まあそういう感じのモブなんですけどぉ。音響監督さんがぁ、1クールの間に何回か呼んでくれるみたいでぇ……」
 それが声優の仕事としてどの程度のランクに当たるのかは定かではないが、どうやら「声優志望」から「声優のはしくれ」くらいにはなれたということらしい。
 ヤマダくんにとって幸いだったのは、このオーディション合格をきっかけに、マナセさんの異常な言動がぴたりと鳴りを潜めたことだ。専門的なことはよくわからないが、物事が思うようにうまく運ばないことからくるストレスで、ノイローゼ気味だったのかもしれない。もちろん、根本的な問題が解決したわけではなかったが……。

 そしてこの日――マナセさんは『バーデン-H』を退去することになった。
 なんでも、若手声優ばかりが集まっているシェアハウスに引っ越すのだという。お互いに刺激し合って、勉強にもなるし、練習にもつきあってもらえる、理想的な環境なのだそうだ。
 ヤマダくんにしても、これは願ったりかなったりである。本人のためにもなるし――ホンネを言えば、いつ爆発するかわからない危険物をハウスに置いておきたくない、という思いも少なからずあった。
 何ごともなかったように、爽やかに『バーデン-H』を去っていくマナセさんの後ろ姿を見送りながら、ヤマダくんはそっと胸を撫でおろしていた。
(つづく)

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