第64話 ヤマダくん、またしても不安

「まあ、何はともあれ――」
 ちょうどまる1ヶ月ぶりに集まったメンバーの顔を見回しながら、ヤマダくんはちょっともったいぶって言った。
「無事のご出産、ご退院……本当におめでとうございます!」
「おめでとうございます!!」
 ヤマダくんに続いて一同が唱和すると、祝福の輪の中心にいる3人――とりわけ、その腕に赤ん坊を抱いた母親は、こよなく幸せそうな微笑みを浮かべた。アオノ夫人――ヤマダくんやワタナベさんなどは、未だに旧姓の「フジノさん」と呼んでしまうこともあるのだが――は2週間前、予定通り出産を終えると、母子ともに産後の経過も順調で、10日ほど前に退院していた。出生体重3052グラムの女の子で、これは40年前なら平均をやや下回る数字だが、最近は低体重児が増えたこともあって、これでも平均より大きめであるらしい。
 ――場所は前回と同じく、アオノ夫人の病院近くのファミレスである。ここは完全分煙で、座席スペースも比較的ゆったりしているので、大人数で集まるのに手頃な場所であった。

「――それで、この子のお名前は……?」
 歓談することしばし、おもむろに誰かが発したその質問に、アオノ夫妻は一瞬、視線を見交わす。無言でひとつ頷いたアオノさんは、傍らのトートバッグから1枚のクリアファイルを取り出してみせた。クリアファイルに挟まれた紙の中央には、大きく2文字の漢字が、墨痕鮮やかに、ただし読みやすい楷書体で書かれていた。
「――『希美』と書いて、読みはシンプルに『ノゾミ』」
「へ〜、いいお名前ですね」
 あっさりそう片づけたのはイシザキくんだったが、ヤマダくんはけっこう本気で感心していた。イマドキのいわゆるキラキラネームにはうんざりしていたので、こういう名前らしい名前というか、誰にでも読めて意味も伝わりやすい名前には素直に好感が持てた。
 ちらり、ワタナベさんとイシザキ夫人の様子を伺うと、女性陣にもおおむね好評のようだ。こういう言葉やネーミングのセンスというか、感性の違いは、共同生活では意外と重要な判断基準である。きょくたんに感性の異なる相手とひとつ屋根の下で暮らしていると、お互いにストレスを感じるし、トラブルの元にもなるものだ。そのくらいのことは、シェアハウスオーナーとして長年経験を積んできたヤマダくんには、容易に想像がついた。
 ヤマダくんはさらに、子どもの名前を訊かれたときの一瞬のやりとりから、アオノさんが妻子に対してひどく気を遣っていることも観察していた。はた目にはもうすっかり回復したように見えるアオノ夫人だったが、かつて生まれたばかりの我が子を失った悲しい記憶がそうさせるのか、アオノさんはいささか神経質なくらい妻と子に気を配っている。もちろん、妻子に対して無神経だったり無関心だったりするよりはるかに良いことには違いないのだが、あまり気を遣い過ぎるのも考えものだ。周囲の人間までピリピリしてしまいかねない。その意味で、無神経ではないにしてもかなり大雑把な性格の持ち主らしいイシザキくんとの先輩・後輩コンビは、お互いにとってバランスのいい組み合わせなのかもしれない。
 ――もともと、今日の会合は単なる顔合わせだけの予定だった。出産直後の母子をあまり長居させるつもりもなかったし、ヤマダくんとしては、前回アオノ夫人の入院でできなかった「全員が顔を揃えての決起集会」を改めてやろう、というくらいのつもりでいた。
 だから、小一時間ほどでアオノさん一家が帰宅することになったとき、そのまま解散しようとしていたのだが……。
「――いやいや、今日はさすがに、いろんなこと決めていかないと……」
 そう言い出したのはアオノさんだった。
 たしかに、アパートの契約更新のタイムリミットがあるから、時間的に一番融通が利かないのはアオノ夫妻である。実家住まいのイシザキ夫妻は必要ならもうしばらく待ってもらえるだろうし、『バーデン-H』住まいのヤマダくんたちに至っては逆にもう少し時間をかけてゆっくり準備したいくらいだというのが本音であった。
 しかし、この場合は一番時間的余裕のない人の都合に合わせるべきだろう。そこで、妻と子をアパートまで送り届けた後で、アオノさんだけがこのファミレスまで引き返してくるという話になった。
「今はスマホだってあるんだし、話し合いならテレビ電話ででもできますけど……?」
 と、ヤマダくんはアオノさんが往復する労を気遣ったのだが、アオノさんは
「仕事じゃあるまいし、そんなのかえって疲れるだけだよ」
 と言ってきかない。遠慮しているのではなく、どうやらデジタルデバイスの利用に対するアラフォー世代特有の拒否反応のようだった。

 けっきょく、アオノさんがファミレスに戻ってきたのは夕方の6時近くになってからだった。最初の集合時間が午後2時だったから、半日近くも店に居座っていたことになる。しかも、普通ならそろそろ夕食の注文をするところだが、アオノさんは、「家でカミさんが用意してるから……」と言って、ドリンクバーで済ませようとする。子どもが生まれ、引っ越しを控えて、少しでも節約したいという気持ちもわかるのだが、ヤマダくんとしては正直、いささかやりにくい。
(今まで気づかなかったけど……アオノさんって、あれで案外、めんどくさいとこもあるんだなぁ……)
 ヤマダくんとアオノさんとは、かれこれ7年近いつきあいになる。それで今まで気づかなかったのだから、これは意外な発見に思えたのだが――この日の夜、帰宅してから話をしてみると、彼のパートナーであるワタナベさんはとっくに気がついていたようで、「何を今さら」とあきれられてしまった。案外、ヤマダくんの目もまだまだフシ穴なのかもしれない。
 それはともかく――店に戻ってきてからのアオノさんの仕切りっぷりは見事の一言であった。ヤマダくんのモタモタした議事進行をスパッと断ち切ってみせ、自ら議長役を買って出ると、必要なことをその場でてきぱきと決めていった。迷ったら即断即決、その判断基準は明快でブレがない。このあたりの手腕は、さすがに長年シェアメイトリーダーを続けてきた人だけのことはある。
(――やっぱり、こういうところはとてもじゃないが、この人には敵わないな……)
 アオノさんたちが退去してからざっと4年近くの間、曲がりなりにも『バーデン-H』のリーダー役を務めてきたヤマダくんだったが、その点は認めざるを得ない。
(――新しいハウスでも、シェアメイトリーダーは彼に任せた方がよさそうだな……)
 ヤマダくんがそんなことを考えている間にも、アオノさんは要領よく議事を進めていった。
「で、この『将来の拡張性』という部分なんですが……」
 そう言いながら、アオノさんはヤマダくんの方に視線を向ける。
「――オーナーのお考えは?」
「ええと、これはつまり、世帯数という意味の話になるんですが――基本的には、今ここにいる3世帯以外に、新たな入居世帯を増やすという考えはありません」
 考え考え、ヤマダくんが言う。
「もし、新たな子育てカップルが入居してくるとしたら、それは欠員の補充という場合に限ります。たとえば、地方転勤などで住み続けることができなくなったり……」
 離婚したら……という可能性も思いついたが、それは敢えて口にしなかった。
「そういう事情で、どなたかの世帯が退去したら別の世帯を入居者として迎えることも考えますが、増改築するなどして4世帯目を迎え入れることは考えていません。従って、ここで言う『拡張性』というのは、あくまで我々3世帯の中で入居者の人数が増えるということ。要するに、最大で何人まで子どもをつくれるか、ということになります」
 ヤマダくんの説明を終えると、すかさずイシザキ夫人が疑問をぶつけてきた。
「でもぉ、それって、そのときになってみないとわからないですよね?」
「その通りです。でも、そこはあらかじめ考えて決めておかないと……」
「単純に、各世帯で子ども2人つくるとして、最大で大人6人+子ども6人の12人ってことでいいんじゃないか?」
「そうだな、それでもし、子どもが1人という世帯があって、一方で3人目がほしいという世帯があったら、そのときは話し合いで……」
「あ、でもさ。もし子どもが6人もいたら、ヘタな保育園なんかに預けるより、自宅で面倒みられる環境の方が安心じゃない?」
「それもそうだな。そうすると、やっぱり庭があって、簡単な遊具くらいは置けるように……」
「ちょっと待って! それは今話すべきことじゃ……」
 甲論乙駁、侃々諤々――ようやく始まった本格的な話し合いは、それからさらに2時間以上続き、ようやくお開きとなった。
 アオノさんが急ぐ気持ちも、特に女性陣が新居へ寄せる期待も、痛いほどよくわかるつもりだったが……なんだか、徐々に不安が込み上げてくるヤマダくんであった。
(つづく)

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