第67話 ヤマダくん、ちょっぴり複雑……

「いや〜、ホント、助かりました」
 そう手放しで大絶賛する相手のようすを見て、ヤマダくんはちょっぴり複雑な表情を浮かべた。喜ぶべき出来事には違いないのだが、こうもあっさりと、露骨に手のひらを返されると、何となく小馬鹿にされているような気がしなくもない。
「一時はどうなることかと思いましたよ。やっぱり、ああいう時は男の人がいると安心できますね〜」
「本当に。……いっそ、このままずっといてくれたらと――」
 さすがにそれは言い過ぎだろうと思ったが、ヤマダくんは敢えて何も言わず、応急処置の済んだ『バーデン-K』の惨状に目をやった。
 ――昨夜は、停電に加えて、玄関の内側まで泥水が浸水してきたらしい。かろうじて床上浸水は免れたものの、一時は上り框の数センチ下まで水が溜まっていたらしい。玉砂利仕立てに加工したコンクリート製の沓脱は生々しく濡れていたし、無造作に置かれていたはずの靴箱は上側だけ取り外されて見当たらなくなっていた。おそらく、室内の安全な場所にすばやく移動したものだろう。これひとつとっても、男手が必要だったことは間違いない。
「……お疲れさまでした。本当に助かりました。ありがとうございます」
 ヤマダくんも襟を正して謝辞を述べると、現在、代理シェアメイトリーダーとして『バーデン-K』1号室の住人となっているアオノさんに改めて頭を下げるのだった。

 ヤマダくんたちの計画する「子育てシェアハウス」プロジェクトの同志であるアオノさん夫妻が、緊急避難的に『バーデン-K』に身を寄せるようになってから早くも2ヶ月近くが過ぎようとしていた。本来、女性専用シェアハウスである『バーデン-K』に、成人男性であるアオノさんが暮らすことについては、旧来の住人からは何かと不協和音もないではなかった。ヤマダくんとしても早急に新たな物件を探し、この状況を何とかしなければならないと考えていたのだが、未だに有望な候補物件は見つかっていない。もちろん、アオノさん自身は非の打ちどころのないシェアメイトリーダーぶりを発揮していたのだが、ヤマダくんの婚約者であり、ハウスの共同経営者でもあるワタナベさんのもとには、ときおり住人たちから催促がましい声も寄せられていたという。
 そんな落ち着かない日々を過ごしていくなかで――。
 8月末のある日、西日本に立て続けに襲来した台風による影響か、首都圏でも夕方から凄まじいゲリラ豪雨に見舞われた。ヤマダくんの住んでいる『バーデン-H』はもともと水はけのいい高台に立地しており、建物も新しいのでこれといった被害もなかったが、やや低まった立地にある古民家再生シェアハウスである『バーデン-K』では、一時、表の道路から玄関口に大量の濁流が流れ込んできたという。
 女子どもばかりの住人たちが怯えてパニックになりかけたとき、アオノさんは冷静沈着に状況を見極め、迅速な対応で被害を最小限度に食い止めたのである。
「まあ、あれ以上降ってたら、僕も本職じゃないし、どうしようもなかっただろうけどね。雨足が弱まってきたときは心底ホッとしたよ」
 アオノさんは大手柄を誇るでもなく、飄々とヤマダくんに語った。
「雷が鳴り出してからまもなく、パッと電気が消えてさ。あたふたしてる間に、表を滝のような雨が降り出したじゃないか。とにかく非常灯を引っぱりだして玄関へ行ったら、隙間からどんどん水が流れ込んできたもんだから、急いで沓脱にあった靴を全部靴箱に放り込んでさ。それで、よくよく見ると靴箱が上下着脱式になってるのに気がついて、よいしょって取り外して奥の和室に運んだんだ。その後は、玄関に水が入り込まないように、とりあえず家じゅうの古新聞やらバスタオルやらを掻き集めて上り框に堤防を積んで、箒とちりとりで必死に水を掃き出してたんだよ」
 落雷による地域の停電は、発生から2分足らずで復旧していたのだが、通電時にブレーカーが落ちていたため、家の中は10分以上真っ暗なままだったという。ようやく近所の家に灯がついていることに気づき、アオノさんがブレーカーを上げたとき――当時、ハウス内にいた5号室のキムラさん母子は、抱き合って震えていたという。キムラさんの長男アキヒロくんは、2年前のK⁻県地震とその後の豪雨災害を体験している。まだ物心つく前の幼児だったとはいえ、当時の強烈な記憶がフラッシュバックしたのかもしれない。アオノさんは「もう大丈夫だ」と声をかけ、なおもぐずっているアキヒロくんにこんなことをささやいた。
「そうだ。悪いけど、うちのノゾミたちのようすを見てきてくれないか。もし、こわがってるようならそばにいてあげてほしい」
「……うん!」
 アキヒロくんはたちまち泣きやんで、1号室へ元気よくパタパタと駆け出していった。あっけにとられて見送るキムラさんに、アオノさんはにっこり笑ってこんなことを言った。
「男の子ってのはね、キムラさん。誰かを守ろうと思うときに勇気が出るんですよ……」
 ちなみに、このときノゾミちゃんは表の豪雨も知らず、アオノ夫人に抱かれてすやすや眠っていたそうだが――周囲が大人の女性ばかりという環境で育てられてきたアキヒロくんの成長にとって、この夜のアオノさんの言葉は、少なからぬ影響を与えることになったに違いない。
 なお、4号室のサクライさんはこのとき、ロウソクと空のバケツを手に、雨漏りしそうな場所を探して家の中をうろうろしていたという。さすがは元オーナーだけに細かいことによく気がつく――と言うべきなのかもしれないが、ヤマダくんがこの物件を買い取ったときに屋根の修理も完璧に済ませてあったのだから、やはりちょっとズレた感性という気がしないでもない。だが、まあ、自分のことだけでなく、ハウス全体のことを考えての行動だったのは評価すべきだが。
 ――雨が小降りになってくると、アオノさんは外から帰ってくる残りの住人たちのために、沓脱に古雑誌の束を積んでとりあえずの足場をつくり、乾いたタオルを用意して濡れた足が拭けるようにしておいた。この至れり尽くせりの対応には、帰途に雨宿りしてきたためいつもより遅くに帰宅した2号室のツヅキさん、3号室のササキさんもいたく感激したという。アオノさんが対処していなければ。玄関脇の靴箱の中まで水浸しになっていたに違いない。下手をすれば、明日勤め先に履いていく靴がないどころか、家の中まで泥だらけになっていたかもしれないところだった。さらに、全員が帰宅したのを確認した後、アオノさんは夜中までかかって玄関を掃除し、バケツに何杯も水を汲んできてはこびりついた泥をていねいに洗い流したという――。
 翌朝、アオノさんは何ごともなかったようにいつもの時間に出勤していった。ちょうど地域の燃えるゴミの日だったので、前夜の奮闘で大量に出たゴミも、出がけに残らずまとめて収集所に出してきたというから、文句のつけようがなかった。

 そして、その日の夜――。
 会社帰りに、ようすを見に『バーデン-K』に立ち寄ったヤマダくんを待っていたのは、住人たちのアオノさんに対する「熱烈な手のひら返し」だった。
 事情はわかるから今は仕方ないけど、納得しているわけじゃない――と、彼の受け入れには不平たらたらだった女性たちが、今や目をキラキラさせてアオノさんを見ていることに、ヤマダくんはいささか居心地の悪さを感じていた。アオノさん一家が今ここに住んでいるのは、あくまで暫定的措置なのだ。それを忘れてほしくはなかった。――とはいうものの。
(何だかんだ言っても、昨夜はアオノさんがここにいてくれて本当によかった……)
 それだけは、心の底からそう思わずにはいられないヤマダくんだった。
(つづく)

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