第73話 ヤマダくん、引っ越す!

「大丈夫っすよ。万事任せてください!」
 どん、と胸を叩かんばかりに大見得を切ってみせたのは、『バーデン-H』102号室のイトウくんだ。そのようすを見て、ヤマダくんはむしろ不安げにボソボソとつけ加える。
「――当面、週に一度は会社帰りに顔を出すつもりだけど……」
「いや〜、逆に大変でしょ? せいぜい月イチで十分ですって」
「…………でも」
「もちろん、何かあったらすぐ連絡しますから。大丈夫、こっちだって慣れっこですよ」
 ヤマダくんの逡巡を、イトウくんは歯牙にもかけない。やる気だけはあるようだ。
 たしかに、イトウくんが入居して一つ屋根の下で暮らし始めてかれこれ5年近くになる。『バーデン-H』は比較的メンバーの入れ替わりが少ないハウスだし、シェアメイトたちはお互い、気心も知れている。ヤマダくん夫婦がいなくなればハウス最古参となる203号室のタバタさんをはじめ、ほかのシェアメイト一同に異存がない以上、自ら立候補したイトウくんにシェアメイトリーダーの座を委ねるのが順当な判断だろう。とはいうものの……。
(――ホントに、こいつに任せてよかったんだろうか……?)
 今さらのように、不安がこみ上げてくるヤマダくんだった。

 4月上旬の日曜日――。
 いよいよ、ヤマダくん夫婦が新たな住まいである子育てシェアハウス『バーデン-S』へ引っ越す日がやってきた。S市にある『バーデン-S』には、すでにアオノさん一家とイシザキくんが暮らし始めている。身重のイシザキ夫人は、当初は夫婦で同時に越してくるつもりだったらしいが、「初産でもあり、臨月間近で環境が急変するのは母体にストレスがかかるのでは?」という懸念から、最終的に出産まで実家に残ることにした。『バーデン-S』に引っ越せば、行きつけの産婦人科も変えなければならないし、予定日まで約1ヶ月と迫った今は大事をとった方がいい――という判断だった。
 イシザキくんなどは「できれば予定日よりちょい早く、5月1日の午前0時ちょうどとかに産まれてくれないかな〜?」などとのんきに構えていたが、さすがに経産婦であるアオノ夫人からたしなめられたらしい。男にとって出産はしょせん他人事だが、女は当事者なのだ。「いつ産まれるかじゃなく、無事に産まれるかどうかを心配しなさい」ときつく言われ、さしものイシザキくんもシュンとなったそうだ。いずれにせよ――めでたく令和ベイビーが誕生すれば、ヤマダくん夫婦と合わせて『バーデン-S』の住人は8人(?)となる。
 新生児と1歳児の赤ん坊ふたりを抱えた3世帯8人での新生活は、さぞや賑やかなものとなるに違いない。それに加えて、慣れない環境で通勤時間も長くなるなど、大人たちにとっても日常生活への影響は少なくないだろうが――ヤマダくんは、それらについてはそれほど心配してはいなかった。
 なんだかんだ言っても、自分もいればアオノさんもいる。シェアハウス暮らしのベテランが揃っているのだから、日常のハウス運営は盤石の体制といっていい。問題はむしろ、自分たちがいなくなった後の『バーデン-H』のハウス運営だった。
「――ま、『バーデン-K』に関する心配がなくなっただけでもよしとするか……」
 誰に言うともなく、ひとりごちるヤマダくんだった。

 ――ヤマダくんが2軒目のシェアハウスである『バーデン-K』を売却したのは、2週間前の3月末付だった。購入手続きをしたのが3年前の1月、開業日が3月1日だから、ちょうど3年間所有していたことになる。古民家再生シェアハウスというコンセプトや、女性専用という運用方針、オーナーが離れて暮らす経営スタイルなど、さまざまな意味でヤマダくんが今後シェアハウス大家さんとしてキャリアを積んでいくための恰好のテストケースであり、大いに意味があった。決して負け惜しみでなく、それは間違いないところだったが――ただし、ハウス単体の経営を見れば、『バーデン-K』は明らかにマイナス収支であった。
 夫婦の新居となる『バーデン-S』へ移る前に、問題山積みの『バーデン-K』を手放してしまいたい――というヤマダくんの提案は、思ったよりもすんなりと妻に受け入れられた。彼女は件の古民家再生ハウスを物件としては非常に気に入っていたし、前オーナーであるサクライさんとも仲がいい。サクライさんがハウスを手放そうとしていたとき、ここを居抜きで買い取る交渉を進めたのも彼女だし、購入資金も半分近くは彼女が負担している。名義上はヤマダくんの所有となっていたが、実質的にはふたりの共有財産だ。だからこそ、売却するにはまず、彼女の同意を得る必要があったのだが――案ずるより産むが易しというか、むしろ彼女の方が積極的なくらいだった。
「3年前と今では事情が違うもの。サクライさんさえ同意してくれるなら、わたしはぜんぜん構わないよ」
 それを聞いたヤマダくんは、ただちにサクライさんに電話をかけることにした。ちょうどアオノさんの引っ越しが目前に迫っていた時期で、サクライさんとしても、空いた1号室に関してオーナーのヤマダくんから何か言ってくるものと予想していたようだ。「話し合いたい」というヤマダくんの申し出を待っていたように、その場で約束を取りつけ、2日後の面談が実現したのであった。
 約束の日――すでにアオノ家の荷物が運び出され、がらんとした『バーデン-K』の1号室で、ヤマダくん夫妻とサクライさんは膝を突き合わせていた。
(――考えてみれば、4年前の暮れに買い取り交渉したのもこの部屋だったな……)
 しみじみと、ヤマダくんは回想する。当時、ここのオーナーであったサクライさんはこの部屋を自室として使っており、ヤマダくんはまだ“婚約者のワタナベさん”であった妻に誘われてこの部屋を訪ねたのである。それが『バーデン-K』の始まりだった。今、それを終わらせるために、ふたたびこの部屋に来ているのだ――と。
「――じつは、しばらく前から考えていたんですが……」
 そう前置きして、ヤマダくんは話を切り出した。
 この『バーデン-K』を売却しようと考えていること――。
 買い手については、これから探すつもりであること――。
 いくつかアテがないこともないが(これは半分、ハッタリだった)、もしその気があるなら、サクライさん自身が買い戻してくれてもいい、ということ――。
 淡々と語るヤマダくんの前で、サクライさんはめまぐるしく表情を変えた。驚きと戸惑い、そして迷いの色。少なくとも、あからさまな反発や怒りの反応ではない。これなら可能性はあるかも――とヤマダくんはいくらか勇気づけられる思いがした。
「理由としては――ご存じの通り、われわれ夫婦も近々、アオノさんたちと同じS市の家へ引っ越します。そうなると、今まで以上にここへは目が届かなくなる。何かあっても、おいそれとはようすを見に来られません」
「……………」
「アパートのように専従の管理人を置く、ということも考えましたが、それには余計なお金もかかるし、われわれが目指しているシェアハウスの精神にそぐわない――」
 これも半分は出まかせだった。管理人を置くことなど考えたこともない。要するに、離れてハウスを運営するには管理体制を根本的に見直さなければならない、ということだ。少なくとも以前のように、ヤマダくんたちが自分で所有したまま、サクライさんにシェアメイトリーダーを任せるつもりはない、という意志を示したつもりだった。
 その代わり――と言うように、ヤマダくんは具体的な条件を口にした。
 サクライさんが買い戻してくれるなら、売り値は自分たちが買ったときと同額でいい。3年前に『バーデン-K』を立ち上げたとき、内外装はひと通りリフォームしているが、その費用については3年分の経年劣化と相殺でいい――という条件である。つまり、ヤマダくんとしてはこの売却で儲けようとは考えていない、ということだった。
 客観的に見れば、悪くない条件のはずだった。3年前にヤマダくんたちがここを購入したときには、物件は老朽化して清掃も行き届かず、空室だらけだった。それをきれいにリフォームした上、アオノ家が引っ越した後の1号室以外はすべての部屋が埋まっている。もし、無関係の第三者に売却すれば、まず間違いなく購入価格以上の差益が出ていたことだろう。その利益機会を逸失してまで、元のオーナーであるサクライさんに買い戻しのチャンスを与えようというのである。
「――まあ、お陰様で弟の再就職もうまくいったし……」
 唐突な話題の転換に、ヤマダくんは一瞬「?」となったが、すぐに思い出す。そういえば、そもそも3年前、サクライさんがハウスを売ろうとしていたのは、甥っ子の大学入学を前に、彼の父親であるサクライさんの弟がリストラで失職したことが遠因だった。アラフィフで未婚の彼女にとっては実の子のような存在である甥っ子のために、唯一の財産である家を手放して学費をつくろうとしていたのだ。ヤマダくんがここを買おうと決断したのも、ひとつには、そんな彼女の意気に感じたためでもあった。
「……正直、願ってもないお話だと思う。お金は何とかするから、どうかアタシにこの家を買い戻させてください」
 そう言って、サクライさんは深々と頭を下げた。あわてて、ヤマダくんたちも頭を下げる。ぺこぺこと頭の下げ合いがひとしきり続いたのち――どちらからともなく、何のわだかまりもない明るい笑い声が漏れてきた。
(つづく)

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