第74話 ヤマダくん、順風満帆……?

 未明の静寂を破って、壁の向こうから赤ん坊の泣き声がかすかに漏れ聞こえてきた。
「……はじまったな」
 声に出さずに胸の奥でつぶやき、ヤマダくんはごそごそとベッドの上で身じろぎした。寝ぼけまなこで枕元の目覚まし時計に目をやると、午前5時を少し回ったところだった。
 新調したてのダブルベッドの隣で寝ている妻を起こさないように、できるだけそっと身を起こすと、ヤマダくんはベッドサイドのスリッパを突っかけて寝室を抜け出した。廊下に出ると、赤ん坊の泣き声がほんの少し近くなる。だが、喧しいというほどではない。ひとつ屋根の下に新生児がいれば、これくらいは当然覚悟していたことだった。
 共用スペースであるトイレに入ると、泣き声はもう少しはっきり聞こえるようになったが、母親が目を覚ましたらしく、ほどなく赤ん坊の声は甘えたような、ぐずるような調子に変わった。そして、小用を済ませたヤマダくんがトイレを流すと、もう壁の向こうから泣き声は聞こえなくなっていた。
(――さて、どうしたものかな……)
 音を殺してトイレのドアを閉めつつ、ヤマダくんはしばし逡巡した。このままベッドに戻れば、目覚ましが鳴るまであと小一時間は二度寝することができるが――逆に言えば、せいぜいその程度の余裕しかない。ここS市に引っ越してからというもの、通勤時間は以前に比べて40分強は長くなった。いつもより一本早い電車に乗れば座っていけるようになったことでもあるし、今朝はもう起きてしまってもいいのではないか。
 そう思い決めると、ヤマダくんは寝起きの頭をしゃっきりさせようと洗面所に向かった。

 ――ヤマダくん夫妻が、新たにオープンした子育てシェアハウス『バーデン-S』へ引っ越してから1ヶ月半近くが過ぎていた。
 当初は1歳児を含む6人暮らしでのスタートだったが、ちょうど1週間前、無事に令和ベイビーを出産したイシザキ夫人が退院してきたことで、ハウスは一気に賑やかになった。
「――男の子だって? 名前は?」
 まるまると肥った健康そうな赤ん坊を抱いたイシザキ夫人にアオノさんが訊ねると、
「ソウタです。奏でるに太郎のタで、奏太」
 満面に幸せそうな笑みを浮かべて、赤子の母親はそう答えた。
「素敵なお名前ね」
 心から祝福の声をかけたのはアオノ夫人だ。彼女の膝では、ノゾミちゃんが行儀よくちょこんと腰をおろして、興味深そうに年下の男の子を覗き込んでいる。
「でも、第一子が男の子だと大変だっていうけど……」
 思わずわかったような口を利いてしまったヤマダくんに、彼の新妻はすかさず、たしなめるように袖を引いて言った。
「あら、この『バーデン-S』という家では二番目の子どもでしょ。一姫二太郎でちょうどいいじゃない」
 うん、なかなかうまいフォローだ。ヤマダくんが感心していると、イシザキくんがもっともらしい顔で口をはさんだ。
「違いない。これで、ヤマダさんとこに子どもができたら――」
「…………?」
「――一姫二太郎三ナスビ」
「それ言いたかっただけだろ!」
 天然ボケか、狙ったツッコミか、イシザキくん会心のギャグに一同は爆笑した。

 ――そんな騒動から早くも一週間。
 『バーデン-S』は静かに日常を刻んでいた。入居する3世帯の間には必ず共用スペースをはさんでいるというハウスの構造から、いわゆる生活騒音はまったくと言っていいほど気にならない。先ほどのようにソウタくんが泣いても、それこそ静まり返った真夜中でもない限り、他の世帯の専有スペースにいればほとんど聞こえないレベルだった。
 もともとヤマダくんたちはシェアハウス暮らしが長かったし、妻の実家で“マスオさん”暮らしをしていたイシザキくんも他人との共同生活には慣れていた。唯一、学生時代にルームシェアの経験があるというだけで、しかも新生児を抱えたイシザキ夫人だけがいくらか気がかりだったが、そこはアオノ夫人やヤマダくんの妻が上手にフォローしてくれているようだ。赤ん坊のソウタくんが来たことで“お姉ちゃん”になったからなのか、ノゾミちゃんもいつの間にやらだいぶ子どもらしくしっかりしてきている。母親のアオノ夫人によると、そろそろ“卒乳”も考えはじめているとのことだ。そんなこんなで、3組のカップルと2人の幼児、合計8人での新居生活は、これといったトラブルもなく、まずは順調なすべり出しと言えた。
 いっぽう、遠隔管理になってしまった『バーデン-H』のほうも、新たにシェアメイトリーダーとなったイトウくんを中心に、問題なく稼動しているようだ。イトウくんは以前ヤマダくんが住んでいた101号室へ移り、その後、空室となった102号室と201号室の新しい入居者も無事に決まっていた。102号室にはマツナガくんという20代半ばの男性、201号室にはカトウさんという30前後の女性が、それぞれGW中にそれぞれ引っ越してきている。彼ら新入居者の面接はもちろんヤマダくん自身が行い、管理会社のオオシマ女史も立ち会ってくれた。面接で話しただけでは細かい人となりまではわからないが、ヤマダくんのこれまでの経験上、2人とも他人とトラブルを起こしそうな人間には見えなかった。
「(こちらのようすを見に来るのは)せいぜい月イチで十分です」
 というイトウくんの気づかいに甘えたわけではないが、実際、ヤマダくんは引っ越してから今までに二度しか『バーデン-H』に顔を出していない。直近ではGW明けの火曜日に行ってきたばかりだが、今のところ、それで特に問題はないようだった。
 ついでに言えば、話し合いの結果分割払いと決まった『バーデン-K』――なお、所有者は変わったが、名称は『バーデン-K』のままだ。看板の付け替えやら何やらの費用が惜しいのだろう――の売却費用も4月分、5月分ときっちりサクライさんから振り込まれている。
 すべて順調――本当に、怖いくらい順風満帆だった。
(…………怖いくらい?)
 共用スペースのリビングのソファに腰を下ろし、徐々に明るくなってきた窓の外を眺めながら、ふと――ヤマダくんは自問する。たった今、なんとなく頭に浮かんだフレーズに、どこか引っかかるものを感じる。
(……何の問題もないことが……怖いのか? おれは――)
 当たり前の感覚なら、何ごともなく順調にことが運んでいるのは歓迎すべき状態のはずだった。余計なことに気を煩わせることもなく、本業や、新居での生活に専念できるからだ。職場から遠くなった影響で以前より早起きする必要はあるが、それにももう慣れた。新婚ということで、特に同じ職場である妻は基本的に定時上がりするようになったし、ヤマダくんも以前に比べて残業は減っている。これには、会社がいわゆる「働き方改革」に取り組みはじめていることも背景にあるが、もともと時期的に繁忙期ではなかったからかもしれない。
 ともあれ――新生活はすべてが順調であり、平和であり、平穏であった。いささか長すぎた春を経てゴールインした妻との新婚生活にも、これといって不満も不安もない。
(……だから、なのか――?)
 思えば、29歳の春に一念発起して「マイホーム、ゲット!」を目指して動き始めて以来、ヤマダくんは常にさまざまな悩みやトラブルを抱えていた。ひとつの問題をクリアすれば、また新たな問題がどこからともなく降ってきて、気の休まるヒマもなかったと言っていい。それらの問題がひと通り片づき、今、ヤマダくんはようやく、これといった悩みもなく日々を過ごせるようになった。結構な話である。他人が聞いたら――いや、ほんの半年前の自分が聞いたら、間違いなくうらやましがることだろう。それなのに、どこかモヤモヤする気持ちが心の中にあるのは――。
「根っからの苦労性なのかな……?」
 自嘲するように小声でつぶやくと、ヤマダくんはソファから立ち上がった。リビングの壁に掛けられた時計を見ると、6時5分前――そろそろ妻を起こしてもいいだろう。専有スペースの一角に設けられたミニキッチンに戻り、電気ケトルに水を汲んでスイッチを入れる。ものの数十秒で湯気を上げはじめたケトルに背を向け、ヤマダくんは妻を起こすべく寝室へ向かう。途中、昨夜寝る前に充電器に繋いでおいたスマホに何気なく目をやると――夜中のうちに誰かからメッセージの着信があったようだ。
 送信者は、『バーデン-H』のシェアメイトリーダー、イトウくんである。長いつきあいであり、気心の知れた相手ではあるが、今は立場が立場だ。メッセージを寄越した時間帯から考えても、いつもの調子の他愛もない雑談ということは考えにくい……。
「――何か、あったのかな……?」
 そうひとりごちて、メッセージの全文表示を操作しながら――何故か、無意識のうちに、どこかしら安心したような表情が浮かんでしまうヤマダくんだった。
(つづく)

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