第75話 ヤマダくん、激怒する!

「――つまりは、こういうことだったのか……」
 どんよりと疲労をにじませた声音で、ヤマダくんはつぶやいた。
「はぁ………すいません」
 さっきからずっと下を向いたままのイトウくんは、かすれた声で応える。この日何回目になるかわからない詫びの言葉も、どこかそらぞらしくさえ感じられた。大船に乗ったつもりで任せておけ、と言わんばかりに胸を張って『バーデン-H』のシェアメイトリーダーを拝命したあの日から、まだ3ヶ月も経っていない。
「なにも謝れと言ってるわけじゃないよ。済んだことは仕方がない。それより、そいつをこれからどうするかが問題だ」
 足元の“そいつ”を指さしながら、努めて冷静な口調で指摘したヤマダくんだったが、イトウくんは相変わらず顔を上げようともしない。
「…………面目ないっす」
 これでは一向にラチがあかない。ヤマダくんが業を煮やして口を開きかけたとき――。
「クゥ〜〜ン」
 甘えたように鼻を鳴らして、淡い茶褐色の毛玉のような姿をした“そいつ”――生後半年あまりのゴールデン・レトリバー種の大型犬が身じろぎした。

 ――話は、5月下旬にさかのぼる。
 ヤマダくん夫妻が4月末にS市の『バーデン-S』に引っ越して以来、彼らの1軒目のシェアハウスである『バーデン-H』は遠隔管理となっていた。イトウくんを新たなシェアメイトリーダーに、『バーデン-H』は何の問題もなく運営されていたはずだったが、その日の早朝、イトウくんから送られた一通のメッセージがことの発端であった。
『ここってペット禁止ですよね? 預かるのもダメっすか?』
 最初はたしか、そんな軽いニュアンスの問い合わせに近い内容だった。それほど深刻な内容とも思えなかったし、ヤマダくんとしても、頭ごなしに否定するつもりはなかった。
『ペットの種類にもよるな。小鳥や熱帯魚なら、飼い主がしっかり面倒見て他人に迷惑をかけなければ認めてもいいよ』
 そう返信すると、しばらくしてまたメッセージが届く。
『犬猫はマズいっすか?』
『基本的にNG。毛が飛び散るし、家が傷むから』
『ひと晩預かるだけなら? ケージに入れて、絶対迷惑はかけないように』
『ダメ』
『どうしても?』
『どうしてもダメ。誰が言ってるの? 言いにくければ俺から注意しようか?』
 ――そんなやりとりがあった。
 その後、イトウくんからはその件に関する連絡はなく、ヤマダくんもこの問題はすっかり片づいたものと思っていた。というより、そんなやりとりがあったこと自体、忘れていた。この日、仕事の都合で外出先から直帰となり、ひさびさに余裕ができたため、抜き打ちで『バーデン-H』へ足を運ぶまでは……。

 玄関のドアを開けた瞬間、かすかな臭いが鼻をついた。
 玄関先に置いた芳香剤でも完全には消しきれない、さながら体育会系の部室のような、獣くさい体臭。誰か、2〜3日風呂に入っていない奴がいるのか――とそのときは思った。季節はそろそろ夏を迎え、臭いが気になる時期でもある。それとも、ついつい生ゴミを溜め込んでしまったのだろうか? だとすれば、しっかり注意しておかないと。
 そんなことを考えながら、ヤマダくんが靴を脱いで三和土に上がろうとしたとき。
「――――ウォン!」
 と、これは聞き間違えようのない、犬の吠え声がした。――家の中から。
 近所に犬を飼っている家があったかどうか、とっさには思い出せなかったが、何しろ声は家の中から聞こえたのだ。近所の犬が勝手に入り込んだ、という状況は考えにくい以上、この『バーデン-H』に、犬を連れ込んだ者がいると考えて間違いない。入居者の誰かが、オーナーであるヤマダくんの不在をいいことに、無断で犬を飼っている――?
 そういえば……と、ここでようやく思い出したのが、先日のイトウくんとのメッセージのやりとりだった。「犬を飼っていいか?」とはっきり訊かれたわけではなかったが、一連のやりとりを思い返せば、答えは明らかだった。
 イトウくん本人か、他の入居者かはわからないが、あのとき、誰かが「犬を預かる」ことの是非をヤマダくんに問い合わせてきた。ヤマダくんはにべもなく即座に拒否したつもりだったのだが、イトウくんはその言葉に従わなかった。あるいは、当事者である他の誰かにそのことを伝えられなかった。その結果――なしくずし的に、今、この家には犬がいる。
 当然、ヤマダくんは激怒した。自他ともに認める温厚な性格で、ふだん、他人に対してめったに声を荒げたりしたことのないヤマダくんだったが、さすがにこれは度が過ぎるふるまいである。彼の怒りは、信頼して任せたつもりのシェアメイトリーダーであるイトウくんに向けられていた。
 ――平日の夕方ではあったが、101号室の明かりが点いていることを確認し、ヤマダくんは乱暴にドアをノックした。
「イトウくん! いるんだろ!? 訊きたいことがある!!」
 興奮のあまり、名乗りもせずにそう怒鳴ったが、声で相手が誰かわかったのだろう。一瞬、沈黙があってから、おそるおそるといった調子でドアが少し開く。隙間からドア越しに、イトウくんがきまり悪そうな顔を覗かせた。
「…………あ、どうも――」
 間の抜けた挨拶を無視して、ヤマダくんは勢い込んで詰問する。
「どういうつもりだ――?」
「………………すいません」
 消え入りそうなイトウくんの声に、さらにイライラと怒りを募らせたヤマダくんだったが――そこで少し冷静になった。他の入居者の手前、シェアメイトリーダーを任せたイトウくんを頭ごなしに怒鳴りつけるのは得策ではない。これでも、ヤマダくんも今や、本業の職場では数名の部下を任される立場である。管理職教育というほど本格的なものではないが、「部下の叱り方」といった研修を受講したこともあり、それなりにノウハウを学んでもいた。
 とにかく、目の前に相手がいるのだ。事情を――苦しい言い訳にせよ――聞いてやらなければなるまい。
「……入らせてもらうよ。とりあえず、事情を説明してくれ」

 つい3ヶ月前までヤマダくんの自室であった101号室は、ひどいありさまだった。
 衣類やクッションが床に散らばっているのは目をつぶるとしても、そこかしこに抜け落ちた毛が綿ぼこりのように積もり、床のフローリングも細かい引っ掻き傷だらけだった。
 そして――これも抜け毛まみれのクッションの上に、淡い茶褐色の体毛に包まれた体長1メートル弱のゴールデン・レトリバーが鎮座していたのである。部屋の隅には、犬のサイズからするとどう考えても小さすぎるペットケージがぽつんと放置されていた。
 壁際の一面をベッドが占領しているため、3帖ほどの室内は男2人でもひどく狭苦しい。イトウくんをベッドに座らせ、ヤマダくんはドアに背をもたれさせて立ったまま、話を聞くことにする。2人の間に挟まれた格好のゴールデン・レトリバーは、見慣れないヤマダくんの姿を興味深げに見上げていた。
「――最初は、ホントにひと晩預かるだけだったんです……」
 ヤマダくんに見下ろされながら、イトウくんはぽつりぽつりと語り始めた。その説明によると――。
 イトウくんには、つきあっていた彼女がいたらしい。正確には“元カノ”というべきか。このゴールデン・レトリバーの飼い主は、その元カノだった。
 ペットショップで仔犬を見て気に入り、後先考えずに購入したのはいいが、レトリバーは大型犬種である。元カノは都内のワンルームマンションに住んでいたが、そこは当然、ペット禁止。それでも小さいうちは何とか隠して飼っていたようだが、仔犬はぐんぐん大きくなる。都心のマンションなどで飼うときには、吠えないように声帯を切除する手術が推奨されるらしいが、「犬がかわいそう」なのと費用がかかるため、それもしていなかったという。それどころか、散歩にも連れて行かず、部屋で放し飼いにしていたため、まもなく管理人に発覚することになった。部屋を出て行くか、犬を保健所に連れていくしかない――という二者択一を迫られた元カノは、当時つきあっていたイトウくんに泣きついた。
 そこで、妙な漢気を発揮したイトウくんが、犬を『バーデン-H』に連れ帰ったのが、あの日――ヤマダくんにメッセージを送った日であったという。
「――なるほど。つまり、すでに犬を連れ込んでしまってから、こちらに事後承諾を求めたわけだ」
 ヤマダくんが冷ややかに言う。
「しかも、ダメだと即答したにもかかわらず、そのまま黙って犬を居座らせた――」
「………すいません」
 うなだれたイトウくんに、ヤマダくんはため息をつく。
「しかし――本来は彼女の犬なんだろう? ひと晩預かったのはともかく、どうしてその後もここに置いておくんだ?」
「それが…………」
 元カノはもともと、“生きたぬいぐるみ”のような感覚で仔犬を飼っていたらしい。それが中途半端に大きくなり、世話に手がかかるようになると、あっさり気持ちが離れてしまった。早い話が、飽きてしまったのだという。あの日、イトウくんが半ば強引に連れ帰らなければ、翌日には保健所に連れていくつもりだったそうだ。
「そんなの、人としてどうかって思って……それでまあ、こっちもあいつとは別れることにしたんですけどね」
 最初の晩こそヤマダくんへのメッセージ通り、運んできたケージにそのまま閉じ込めておいたものの、すでにある程度成長していた犬にはケージは狭すぎた。しかたなく、自室から外には出さないという条件で、他の入居者にも一応の了解を得たという。
 それからというもの、イトウくんは必死で、代わりに飼ってくれる人はいないかと心当たりを探した。だが、大型犬のゴールデン・レトリバーとなるとそうそう引き取り手は見つからない。ダメ元で売り主のペットショップにも相談してみたが、そっけなく断られたそうだ。
「――もちろん、ここで犬飼っちゃいけないのはよくわかってます。近いうちに絶対、引き取り手を見つけますから……どうか、もう少しだけ――」
 座っていたベッドに両手をついて、土下座せんばかりに懇願するイトウくんの姿を見て――ヤマダくんは、胸中密かに解決策を模索していた。
(つづく)

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