第77話 ヤマダくん、買い出し!

「……えー、早いもので、今週末がラストチャンスになります」
 9月下旬の三連休最終日、『バーデン-S』のリビングであった。連休中はそれぞれ、実家に子どもを連れて行ったり、家族旅行に出かけたりしていた3世帯の入居者が、ひさびさに全員顔を揃えた(もちろん、幼児2人はすでに寝かしてつけた後である)夜、ヤマダくんの呼びかけで大人だけがここに集合していた。授乳中のイシザキ夫人を除く5人は、めいめい好みのアルコール飲料を片手にくつろいでいた。
「いよいよだよね〜」
 口調こそ他人事のように軽めだったが、アオノさんの表情には苦いものがある。
「……正直、ギリギリまで延期の可能性を信じてたんスけどね」
 イシザキくんがぼそり、と低い声で言う。その気持ちは、ヤマダくんにも痛いほどよくわかっていた。
「あっと、その前に――家賃についてはご心配なく。契約時にも言いましたが、これは当面、据え置きで値上げする予定はありません」
 ヤマダくんが思い出したようにそう言うと、心なしかホッとしたような空気が場に流れた。一つ屋根の下に暮らす大家族のような関係だとはいえ、そこはやはり、オーナーと店子である。オーナーの胸先三寸で家賃が上がる可能性もないではなかったのだから、「当面値上げはしない」というひと言があるのとないのでは心証がずいぶん違う。もちろん、これは言外に「将来的には値上げの可能性もある」「当面というのがいつまで続くかはわからない」という意味も含まれているのだが……。
 いずれにせよ――10月1日より消費税率が現行の8%から10%に引き上げられるのに伴い、世の中には“駆け込み需要”の嵐が吹き荒れていた。ヤマダくんたちの暮らす子育てシェアハウス『バーデン-S』もご同様で、増税実施前の今週末に3世帯分まとめて買い出しをすることになったのである。
「ともあれ、まとまった出費が必要な物があれば、今月中に買っておくというのが方針です。金曜日までに買い物リストを作成することと、土日には買い出し部隊の人手が必要になります。それと、申し訳ないけどイシザキくんにはいつものように軽トラの手配をお願いできますか? それじゃ、各家庭でよく話し合って、金曜日の夜に詳細を詰めましょう」
 ヤマダくんがそう言って、その夜はとりあえず散会となった。

 ヤマダ家の専有スペースに戻ってくると、ヤマダくんは妻に確認した。
「我が家の買い物リストは夕べのうちに書き出しておいたけど、もう見てくれた?」
 新婚で子どももいないヤマダ夫妻は、この三連休に特にどこへも出かけず、ふだんあまり掃除の行き届かない共有スペースの大掃除をしたり、庭の手入れをしたりしてのんびり過ごした。週末の台風17号の影響で庭のそこここに落ち葉や枝が散乱していたし、門の外にも、どこからか飛ばされてきたコンビニ袋やペットボトルなどのゴミが散らかっていたからだ。このあたりは新興住宅地の一角なので、今のところわずらわしい近所づきあいはなかったが、いずれ町内会の行事でドブさらいくらいはさせられるようになるかもしれない。
「見たよ。うちの物はだいたい大丈夫だと思うけど……ハウス全体のストックはもっとあった方がいいんじゃない?」
「……んー、たとえば?」
「ゴミ袋とか、備蓄関係」
 言いながら妻が差し出したメモを受け取って、ヤマダくんは一瞥する。彼自身の書き出した買い物メモの下に、妻の字で不足分がいろいろと書き足されていた。
 ・70リットル入りゴミ袋(予備に3〜4パック)
 ・非常用飲料水(2リットル入りペットボトル4〜5ケース)
 ・非常食(人数×3〜4日分)
 ・トイレットペーパー(12ロール入り5〜6パック)
 ・カセットコンロのガスボンベ(6本入り2〜3ケース)
 ・スマホ充電器(3〜4個)
 ・ペットフード(1週間分)
 ・トイレ砂(1週間分)……
「……トイレ砂?」
 一番下に書かれた項目を見て、ヤマダくんが声を上げる。
「猫じゃあるまいし、庭でさせればいいじゃないか?」
「ダメよ。今、けっこううるさいんだから」
 妻が言うには――先日、紆余曲折の末に『バーデン-S』の庭で飼い始めたゴールデン・レトリバー種の雄犬、バーディー(名づけ親はヤマダくんだが、アオノ家のノゾミちゃんなどはもっぱら「バリー」と呼んでいる)の糞は、最初のうちは庭の土を掘って埋めていたのだが、「ハエがたかる」ということで、最近はペット用のトイレ砂で固めて生ゴミと一緒に出しているのだという。犬を引き取った手前、ヤマダくんも交代で週に2日は散歩に連れていくくらいの面倒は見ていたつもりだが、糞の始末などはついつい家人に任せきりになっていたので知らなかったのだ。
「……それは――その、悪かった」
 ヤマダくんはばつが悪そうに首をすくめた。新婚早々、妻に余計な負担をかけていたのに気づかなかったことを素直に詫びたのである。
「……なぁんてね。わたしじゃなくて、おねえさんがそう言ってたの」
 ヤマダ夫人は照れくさそうに種明かしする。「おねえさん」と言うのはアオノ夫人のことで、一緒に暮らしている3人の奥さんの中で年長である彼女のことをいつの間にかそう呼ぶようになっていた。ちなみに、ほぼ同年輩のヤマダ夫人とイシザキ夫人は互いに相手のことを名前に「ちゃん」付けで呼び合っている。顔も性格もまったく似たところのない3人だが、幸いなことに実の姉妹のように仲がいい。
「――アオノさん家とイシザキくん家は、それぞれ育児用品を大量に買い込みそうだな」
 ひと通り買い物メモをチェックしたヤマダくんは、ひとりごちるように言った。
「まあ、保存の効く消耗品はこの機会に多めにストックしておくことになるでしょうね。紙おむつとか、ミルクとか、レトルトの離乳食とか……」
 ちょっとうらやましそうにヤマダ夫人は答えた。これまた幸いなことに、この『バーデン-S』には備蓄品を置くための収納スペースがかなり多い。というよりは、まだ3家族で暮らすようになって半年なので、各家庭にそれほど余計な荷物がないのである。これが引っ越して2〜3年も経っていたら、こうはいかなかったかもしれない。
「ストックしておく物はまあいいとして――」
 ヤマダくんはふと、思いついたように言った。
「――大物の家電や家具とかで、今のうちに買っておいたほうがいい物はなかったかな?」

 ――その、翌朝。
 連休明けということで、いつもより多少早めに起き出したヤマダくんは、玄関でちょうど出勤しようとしていたアオノさんとイシザキくんにかち合った。ふたりは同じ会社に勤めていて、いつもならヤマダくんより20分くらい早く家を出ているのだが、今朝に限ってどちらかが寝坊でもしたようだ。
「おはようございます」
「あ、おはようございます! やべっ、もうそんな時間!?」
 妙に焦っているようすから、どうやら寝坊したのはイシザキくんの方らしい。
「ああ、大丈夫。おれが今朝はちょっと早いんだよ。それより、ゆうべの話だけど――」
「え? でも、もう出ないと……」
 ヤマダくんの言葉を遮って、あわてて靴を突っかけているイシザキくんの背中に、ヤマダくんはなおも言葉を続ける。
「すぐ済むから。――消耗品だけじゃなく、増税前に買っといたほうがいい高価な物とかも一応、考えといてくれるかな? 買うかどうかはわからないけど」
「あ、はい」
 聞こえているのかどうか、そのままダッシュで玄関を飛び出したイシザキくんを呆れたように見送りながら、アオノさんは立ち上がりつつ答えた。
「わかった。彼とも後で話し合っておくよ。それじゃ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
「ぱぱ、いってらー!」
 いつの間にか、ヤマダくんの後ろに父親の見送りに来ていたノゾミちゃんの元気な声に見送られて、アオノさんも玄関を出て行った。
 ヤマダくんがふり返ると、ちょうど出勤支度を整えた彼の妻が、玄関につづく廊下を歩いてくるところだった。ぱたぱたと部屋へ引き上げていくノゾミちゃんと廊下ですれ違う。
「それじゃ、私たちも行ってきます」
「はーい、いってら―!」
 ふり向きもせずに、声だけは元気にノゾミちゃんが叫び返す。ヤマダ夫妻は思わず顔を見合わせて、にっこりと笑みを交わすと、そのまま連れ立って会社へ出勤していった。
(つづく)

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