第78話 ヤマダくん、労う

「――ただいま。……いやぁ〜、まいった、まいった」
 帰ってくる早々、玄関先で盛大なぼやき節を発したのは、『バーデン-S』最年長の住人であるアオノさんだった。
「お疲れさま。大丈夫だった?」
「ぱぱ、おかえり〜!」
 出迎えた彼の家族が、口々に労いの声をかける。1歳半を過ぎて、だいぶ言葉のしっかりしてきたアオノ家の長女ノゾミちゃんの元気な声は、リビングのヤマダくんたちばかりか、2階にいたイシザキくんの耳にも届いたらしい。
 ヤマダくんが玄関に通じる廊下に顔を出すと、ちょうど階段から降りてきたイシザキくんと出くわした。
「や。どうも、お疲れさまでした」
「お疲れっス」
 男性陣からも労いの言葉をかけてもらい、アオノさんは疲れた顔をかすかにほころばせる。それだけで、ここ数日の彼の苦労がしのばれた。上がり框に座り込んでトレッキングシューズを脱いでいるアオノさんを見ると、履き古したジーンズの裾から膝のあたりにかけて、渇いた泥の塊がこびりついている。無論、トレッキングシューズも泥まみれだ。
「――あ、すまないね。明日、掃除しておくから」
 ヤマダくんの視線に気づいたアオノさんがすまなそうに口にする。玄関を汚したことを詫びているのだ。慌てて、ヤマダくんは言った。
「そんなこと、お気遣いなく。……それより、たいへんだったでしょう?」

 ――1時間後。
 ヤマダくんたちの暮らすシェアハウス『バーデン-S』のリビングでは、ひさびさに3世帯の住人が顔を合わせていた。といっても、女性陣はアオノ夫人ひとり。あとは男ばかりである。イシザキ夫人は息子のソウタくんと2階の寝室に下がり、さっきまで父の帰宅にはしゃいでいたノゾミちゃんも、安心したのかすでにぐっすりと寝入っているそうだ。
 ひと風呂浴びて部屋着に着替えたアオノさんは、いくらかさっぱりした顔つきになっていたが、さすがに今夜は早めに寝かせてあげた方がいいだろう、とヤマダくんは思った。アオノ夫人も心なしか、心配そうにときどき夫の顔を覗き込んでいる。
「――お待たせしました」
 そこへ、グラスと氷、簡単なつまみを載せたトレイを抱えたヤマダくんの妻が入ってきた。
「あ、すんません」
 すかさずソファから腰を浮かせて、イシザキくんがトレイを受け取る。
「アオノ先輩はダブルでよかったスか?」
 つまみの皿をテーブルの中央に置くと、イシザキくんはトングを片手にひょいひょいグラスに氷を放り込みながら訊く。慣れているらしく、なかなか手際がいい。
「いや、水割りで薄〜くしてくれ。なんなら水だけで」
「そりゃないっスよ。……まあ、こんな感じで」
 アオノさんの反応にちょっと驚いたのか、イシザキくんはいささかとまどったようすで、それでも注文通りの飲み物を手早く用意した。――ちなみに、残りのメンバーにはいちいち注文を聞いたりせず、適当にグラスに注いで差し出したのだが、受け取った相手から特に文句が出ないところを見ると、ちゃんとそれぞれの好みに合わせてあるようだ。
 ひと通り飲み物が行きわたったところで、ヤマダくんがおもむろに宣言する。
「それじゃ――アオノさん、ボランティアお疲れさまでした。……乾杯」
 2階で寝ている者たちをはばかって、声は低めに抑えつつ、全員が乾杯を唱和した。

「……雪かきだったら慣れたもんなんだけどね。やっぱ、泥かきは勝手が違ったなあ」
 グラスの中身はうっすらと色がつくかつかないくらいの水割りだったが、それでもアルコールが入ったせいか、アオノさんの舌は少しずつなめらかになっていった。
「――ご実家の方はどんな具合ですか?」
「うちはちょっと高台の方にあるから、特に被害は。まあ、雨漏りがちょっとと、畳が2、3枚ダメになったくらいかな」
「それはまあ……不幸中の幸いというか――」
 気を遣って言葉を選びながらのヤマダくんの質問に、アオノさんがぽつりぽつりと答えていく。あらかじめ状況は電話で聞いているのか、アオノ夫人は無言。イシザキくんも今夜ばかりは口をはさみかねてか、さっきから黙々とグラスを呷っている。
「一番ひどかったのはイトコの家かな。いや、ひどいといっても、家自体は残ってるから、家ごと流された人に比べれば……」
 話題が話題だけに、アオノさんの口調もいつものような軽妙さが欠けていた。それも、無理のないところだ、とヤマダくんは思う。
 ――アオノさんは今週いっぱい、有給休暇をとって帰省していた。それも、ただの帰省ではなかった。先日の台風で郷里が被災し、実家の方にも被害が出ていたと聞いて、手伝いに行ってきたのである。少なくとも、行くときにはそう口にしていた。
「……ま、たいしたことはないみたいなんだけど、実家は年寄りばかりだから、少しは手伝ったほうがいいかな、って」
 重たい物を運んだり、屋根の修理をしたりと、その程度のつもりで出かけて行ったのだが――。
 行ってみると、現地は想像以上にひどいありさまだったという。アオノさんの実家自体は、聞いていた通り大したことはなかったのだが、氾濫した川の近くにあった親戚の家や、昔なじみの友人・知人の家の中には、床下浸水どころか床上浸水の被害に遭っていたところもあったという。アオノさんが行った時点で、台風からすでに2週間近く経過していたのだが、まだ片づけ作業がほとんど手つかずになっている家も少なくなかった。
 実家にひと晩泊まって、翌日には帰るつもりでいたアオノさんだったが、急遽予定を変更して、勤め先に電話して事情を説明し、1週間の有休を申請した。そうして、親戚や友人の家の片づけを手伝うことにしたのであった。もちろん無償の手伝いだから、ヤマダくんはそれを「ボランティア」と称したのだが、別にボランティア団体などに参加したわけではない。
 ――ふと、思い出す。あれはもう、5、6年も前だったか、アオノさんが、のちにアオノ夫人となる彼女を連れて実家に帰省したとき、豪雪で実家に何日か足止めを食ったことがあった。「雪かきだったら慣れたもん」というアオノさんの言葉通り、その際に実家の両親にさんざん屋根の雪下ろしや道の雪かきをさせられたと言っていた。それが今度は泥かきとは……。
「……やっぱ、すごいっスよ、アオノ先輩は」
 イシザキくんがふいに言った。
「うん。なかなかできることじゃないよね」
 ヤマダくんも同意する。先日の台風では、この『バーデン-S』はもちろん、もう1軒の『バーデン-H』の方も特に被害はなかった。また、ヤマダくん自身の実家も、妻の実家であるワタナベ家も、念の為電話でようすを伺ってみたが、被害はないと聞いて安心していたところだった。
 唯一、すでに手放した『バーデン-K』だけは、もとが古民家であるだけにいささか気にはなっていた。現に、いつぞやのゲリラ豪雨の際には、玄関まで雨水が浸水したはずだ。だが、とっくに自分とは無関係になっているハウスにわざわざ問い合わせるのも気が引けて、連絡もしていない。
 そんなふうに、今回の台風は「自分には関係ないところで、勝手に通り過ぎた」という印象しかなかったヤマダくんにとって、アオノさんの行動力は脱帽するしかない。――そういえば、『バーデン-K』のゲリラ豪雨のときも、ハウスを守ってくれたのは、当時代理シェアメイトリーダーとして一時的に『バーデン-K』に住んでいたアオノさんだった……。
「――べつに、おれは何もしてないよ」
 ふたりから褒められて、アオノさんはいくらか居心地悪そうに言った。
「きみたちだって、ここや、自分の実家が大変なら手伝いにいくだろ? そこで、知り合いの家がもっと大変なことになってたら、知らんふりはできないはずだ。そういう人間だから、こうやって一つ屋根の下で一緒に暮らしていけるんだよ……」
「それは……」
 買いかぶりですよ、と言いかけて、ヤマダくんは口ごもった。実際、買いかぶりだとは思う。自分はそんな立派な人間だとは思えない。だが、そう思われているのだとしたら、それはヤマダくんにとって必ずしもいやなことではなかった。
「バリーのことにしてもそうだ。もし、ヤマダくんがここに引き取らなかったら、保健所に連れていかれたか、イトウくんが追い出されるかしていただろ……?」
 アオノさんが唐突に口にしたのは、庭の犬小屋にいるゴールデン・レトリバー犬の名前である。『バーデン-H』のシェアメイトリーダーであるイトウくんが、ヤマダくんに無断でこの犬をハウス内で飼い始めたことから、一時はちょっとした騒ぎになったものだ。
 ヤマダくんが『バーデン』シリーズのハウス名にちなんで「バーディー」と名づけたにもかかわらず、まだ舌の回らないノゾミちゃんが「バリー、バリー」と呼んでいるものだから、いつの間にか大人たちの中でもそう呼ぶ者が増えてきた。
「バーディーですよ」
 無駄だと思いつつそう訂正しながら――ヤマダくんは、改めてこの年長の同居人のことを見直していたのであった。
(つづく)

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