第81話 ヤマダくん、心配する!!

「ほら、ここ――」
 膝の上に乗せたノートパソコンの画面に映し出された該当箇所を指し示しながら、ヤマダくんが言った。
「――ここにちゃんと書いてあるよ」
 言いながら、画面がよく見えるようにぐい、と枕元に突き出す。細かい文字列でびっしりと書き込まれている文書は、閲覧可能なことは一応知っていても――実際には知らない者も多いだろうが――ふだんはまず、目にする機会のないものだ。ベッドに横になったままのヤマダ夫人は、興味深そうに覗き込んだものの、すぐにうんざりした表情になって、画面から目をそらした。長時間見続けていると、気分が悪くなるのだと言う。
「……ゴメン。――読んで」
 仕方なく、ヤマダくんが代わりに読んで聞かせることにする。妊娠の事実がわかって以来、以前にも増して彼は妻に甘くなった。それは妻の方でもよく理解していて、たまに自己嫌悪の念に駆られることもあったが、日常的に接しているとついつい夫にわがままを言う場面が多くなるようだ。妊娠初期に特有な、気分の不安定さからだろう。
「読むよ。――(1)採用日から6ヶ月間継続して勤務し、所定労働日の8割以上出勤した従業員に10日の年次有給休暇を与える。その後1年間継続勤務するごとに、当該1年間において所定労働日の8割以上出勤した従業員に、以下の表の通り勤続期間に応じた日数の年次有給休暇を与える。……入社6年6ヶ月以上なら、年20日間だね」
「…………………」
「で、次。――(2)前項の出勤率の算定に当たっては、年次有給休暇を取得した期間、産前産後の休業期間、育児・介護休業法に基づく育児休業期間・介護休業期間、および、業務上の傷病による休業期間は出勤したものとして取り扱う。会社の都合により休業した日、および、休日出勤日は所定労働日の日数から除外する」
「…………」
「――つまり、ここで有休を消化しても、出産のときに休めなくなるなんてことは就業規則上、絶対にないわけだ」
 ヤマダくんは優しくそう言い聞かせたのだが、妻はまだ完全には納得がいかないようすだった。
「でも……」
「いいから」
 妻の反論を封じるように、ヤマダくんは少々強めに言った。
「時期が時期だし、誰も文句は言わないよ。とにかく――しばらく、会社は休みなさい」
「…………………はい」
 長い沈黙の末に、かろうじて妻がもらした返事に、ヤマダくんはようやく満足したようにベッドサイドから立ち上がった。
「別に病気じゃないんだから、無理に寝てなくてもいいよ。ただし、今日は買い物もやめときな。ご飯は冷蔵庫にあるものでいい。もし何だったら、奥さん方とも相談して……」
 あれこれと思いつくままに口にするヤマダくんに、妻はややあきれたように言った。
「大丈夫。――それより、もう出なくていいの?」
 その言葉に、弾かれたように大急ぎで身支度を整えるヤマダくんだった。

 ――2020年3月初頭。
 世間は、混乱のさなかにあった。
 前年暮れに中国湖北省武漢市で発生した新型コロナウィルスの急激な感染拡大は、今や全世界でパンデミックの様相を呈し、日本でもついに確認された感染者が1000名を超えた。2月末には政府から公立小・中学校の一斉休校が指示され、マスクや消毒用アルコールは入手困難となり、そればかりか無責任なデマが蔓延してトイレットペーパーの買い占め騒動までが起こっていた。
 幸い、ヤマダくんたちが暮らす子育てシェアハウス『バーデン-S』では、先日の買い出しの際に使い捨てマスクを大量に買い込んであったので――本来は花粉症に悩むイシザキ夫人のためだったのだが――各家庭で分け合って、当面は十分なだけの量を確保してあった。いくら「マスクに予防効果は期待できない」と言われても、都心の職場まで毎日電車通勤する夫たち――ヤマダ夫人も含む――にとって、マスクの備えがないのはやはり心許ない。残念ながら消毒用アルコールはなかったが、騒動以来、誰もが入念な手洗いを心がけるようになっていた。
 通勤電車はいつもより若干だが、空いているようだった。ヤマダくんの乗車するS-駅は路線の始発駅だが、数駅通過してもまだ空席がちらほら見えたし、満席となってからも立っている者はお互いになるべく距離を空けるようにしているようだった。それでも、都心に近づくにつれて次第にいつものすし詰めになっていったが、多くの者は電車の中でもできるだけつり革や手すりに触れないように気をつけていた。
 会社に着くと、トイレの手洗い場には行列ができていた。中には気にしない者もいたようだが、自席に着く前に上司に注意を促され、しぶしぶ列の後ろに並んだ。会社の総務担当は「液体せっけんの補充が追いつかない」とこぼし、昔お歳暮で贈られてきたセットの固形せっけんまで引っぱり出す騒ぎであった。
 とにかく――どこもかしこも、軽いパニックに陥っていた。
 この日の朝も、「つわりで食欲がない」「ちょっとだるい」と体調不良を訴える妻に、ヤマダくんは少々過敏に思えるくらい反応し、強引に会社を休ませると言い出した。
「妊娠3ヶ月目だし。個人差はあるにしても、みんなだいたいこんなもんだよ」
 大げさすぎる夫の反応に彼女はそう反論したが、
「大事な時期だからこそ、可能な限り感染リスクは避けなきゃ――」
 ヤマダくんは断固としてそう主張し、わざわざ会社のクラウドに接続して就業規則まで見せて、妻に休みを取らせたのである。
「まあ、体調不良ってことでもいいんだけどさ。今の状況を考えると、わざわざ人込みに出ないほうがいい。会社の方でも配慮してくれるよ」
 こういうとき、夫婦で同じ会社に勤めているのは好都合だ。社内の部署は違うが、隣の部署だし、妻の直属の上司はヤマダくんの1年先輩でそれなりに親しい。うまく話して、できれば来週いっぱいは休ませるつもりでいた。

 ――その朝、臨時の全体朝礼が行われ、すでに営業に出た者を除いて社内にいる社員たちが一堂に集められた。誰もが、不安げに顔を見合わせている。
 まず、総務部長が口火を切った。
「……すでにみなさんもご存じのように、新型コロナウィルスの感染拡大は今や深刻な事態を迎えております――」
 総務部長は、国内の感染者が1000名を超えた事実や、政府が先日発表した感染拡大の温床とされる「換気が悪く、人が密集するような空間」への注意などを淡々と述べる。マイクを通さない肉声のためやや聴き取りづらく、また、ことさら耳新しくもない情報だったが、社員たちは辛抱強く耳を傾けていた。
「……そこで、社長から社員のみなさんにお伝えすることがあります」
 そう言って、総務部長は社長にバトンを渡す。社長がずい、と一歩前に出た。
「……幸い、わが社では従業員の家族も含めて、今のところ感染者が出たという報告は受けておりません。が――出てからでは遅すぎます。万一のことを考え、部署ごとに対応を検討し、当面の間、可能な部署については交替で自宅勤務、それ以外の部署でも時差通勤を実施することにいたしました」
 集まった社員たちが声もなくどよめく。
「……期間は本日、もしくは明日から3月19日まで。詳細については後ほど、各部署の上長から説明があります。年度末でもあり、みな忙しいことと思いますが、今は非常事態です。めいめい助け合って、くれぐれも特定の誰かに負担がかかり過ぎないように、お互い配慮してあげてください――」
 「特定の誰か」という部分で、何人かが反応する。どこの部署にもそれぞれキーパーソンがいるから、彼または彼女に短期間に業務が集中することになるだろうことは、容易に想像がついた。――ヤマダくんも、直属の上司である課長がちらりとこちらを見たのを感じた。彼自身は主任という肩書で、直属の部下こそいないが、後輩たちの面倒を見る機会は多い。
(……心配されてるのかな? それとも自分の心配――?)
 そんな、物思いにふけるヒマもなく――。
 総務部長の解散の号令を受けて、それぞれ自部署に戻った社員たちは、上長からの指示と自分自身の抱えた業務の処理に忙殺されることになるのであった。
(つづく)

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