第83話 ヤマダくん、ひとりごちる

「ヤマダさん? ――今こっちに来ちゃダメです!!」
 電話越しに警告を発するようなイトウくんの悲痛な叫びを聞いたとき――ヤマダくんの脳裏に絶望感がよぎった。まさか――まさか……!? ヤマダくんのシェアハウス『バーデン-H』に、ついに新型コロナウイルスの感染者が出てしまったのか?
 決して大げさでなく、ヤマダくんはパニックを起こしかけていた。咽喉の奥から今にも漏れそうな絶叫をかろうじて抑え、ヤマダくんは過呼吸気味のかすれ声で問いかけた。
「……なにが…………あった――?」
 電話の向こうで、これも必死で呼吸を落ち着かせようとしているらしいイトウくんが、とぎれとぎれに答える。
「あ……いや、……まだ、はっきりしては……いないん……ですが……」
「……………!?」
「マツナガくん……あ、102号室の……彼の職場で、コロナ感染の疑いが出たらしくって……」
 聞きなれない名前に一瞬、ヤマダくんは首をひねったが、すぐに思い出した。イトウくんが『バーデン-H』のシェアメイトリーダーとして101号室に移った後、新たに102号室に入居した20代半ばの男性である。面接で一度顔を合わせたきりだが、いかにも生真面目そうなおとなしい青年だった。
「マツナガくんの? で、彼は――?」
 同僚が感染したというのであれば、マツナガくん自身もPCR検査の対象になっている可能性がある。そして、万が一にも“陽性”と出れば、『バーデン-H』は忌まわしい感染源となり、シェアハウスとしての機能を事実上喪失することになってしまう……。

 だが――幸いにも、ヤマダくんの心配は杞憂に終わった。
「……だ、大丈夫……だと、思いますよ……たぶん……」
「思いますよたぶんじゃ困るんだよ! 同僚が感染したんなら、ほら、濃厚接触だとかなんとか――」
「……いえ、ですから――」
 要領を得ないイトウくんの説明を、懸命になだめすかしながら、辛抱強く訊いてみれば――どうやら、「同僚が感染」というところからヤマダくんの早とちりであったらしい。マツナガくんの勤務先で「感染の疑い」のある患者が出た、というのは事実なのだが、直接顔を合わせる可能性のある「同僚」というわけではなく、「同じ会社に所属している社員」というだけの、一面識もない相手なのだという。無論、それでも、まったく無関係というわけではないから、間に何人かを挟んで間接的な接点はあったかもしれないが――相手は札幌にある営業所勤務で、少なくとも直近2年間は東京本社には一歩も足を踏み入れていないとのこと。患者の直接的な同僚のうち、札幌営業所長は今年の2月に一度本社に出張してきたものの、その際にもマツナガくんとは接触していないし、その時点では今回患者となった者も発症していない。また、マツナガくんの勤務先では3月以降、札幌だけでなく地方営業所とのやりとりはメールやテレビ電話会議のみという方針で、出張は一切行っていないという。いや、そもそも、感染疑いの患者にしたところで、「熱が下がらないのでPCR検査を受けた」というだけで、まだ感染が確定したわけではないということだった。
 ――話を聞いてみれば、いささか心配しすぎのきらいもないではないが、イトウくんのガラにもない慎重さは、ヤマダくんにとっては歓迎すべきことだった。いつぞやの犬の一件――今や『バーデン-S』の愛犬となったゴールデン・レトリバー種の「バリー」ことバーディーのことだ――ではずいぶん苦い思いもさせられたが、あれで当人も反省したのだろう。遠隔管理のカギを握るシェアメイトリーダーを任せた甲斐があったというものだ。
 ともあれ、今回の緊急事態宣言を受けての『バーデン-H』の対応は、イトウくんに一任してもいいだろう――というのがヤマダくんの結論だった。そのまま電話越しにハウス内の感染対策について何点か確認し、必要な指示を与え、「何かあったら必ず連絡するように」とくどいくらい念を押した後、ヤマダくんは電話を切った。けっきょく、すぐ近くまで来ていながら現地へ足を運ぶこともなく、ヤマダくんはすっかり遅くなった昼食を済ませると、ファミレスを出て「H-駅」へ戻ることにしたのであった。

 ――その夜、『バーデン-S』へ帰っていたヤマダくんのもとに、イトウくんからの続報がもたらされた。それによると、例のマツナガくんの会社の「感染の疑い」のある某氏は、一回目のPCR検査では陰性と出た、とのこと。退院までにさらにあと2回は検査を受けることになるそうだが、とりあえず、マツナガくんたち他の社員はホッとしているらしい。
「――それと、これはご相談なんですが……」
 ひと通り報告し終えた後、イトウくんがやや言いにくそうに切り出した。
「何?」
 そっけない口調ながら、どこか嬉しそうな表情を浮かべてヤマダくんが続きを促す。「報告・連絡・相談」のいわゆる「報連相」は社会人のイロハだが、最近ではこれを「しない・できない」という若者も少なくない。『バーデン-H』に入居した当初のイトウくんもそうだったのだが、シェアメイトリーダーを任せてからは明らかに変わりつつある。やはり、「立場が人間をつくる」ということは実際にあるらしい。ヤマダくんの本業の会社でも、いつもまで経っても頼りなかった後輩が、部下を持つ立場になったとたん、いっぱしのリーダーシップを発揮するようになったという実例がある。イトウくんもおそらく、ヤマダくんからシェアメイトリーダーに任命されたことで――さらに言えば、犬のバーディーの失敗という苦い経験を積んだことで――ひと皮むけた、と評価してよさそうだった。
 とはいえ――その「相談」とやらを実際に聞かされると、ヤマダくんとしては、イトウくんの成長を喜んでもいられなくなった。
 イトウくんが口にしたのは、『バーデン-H』入居者に対する家賃支払いの一時的な猶予、もしくは、一定期間の免除についてであった。この時期、すでに厚生労働省では「住宅確保給付金」と称して、今回のコロナ禍によって職を失うなど生活が困窮し、家賃支払いが困難になった世帯を対象に、原則3ヶ月間(最長9ヶ月間)、家賃相当額を支給する制度を実施していた。だが、入居者の多くは「そういう制度がある」ということは漠然と知っているものの、「自分は適用対象になるかどうか?」についてはほとんど理解していないらしいという。だから、自治体の相談窓口に足を運ぶ者もおらず、給付金も受け取れないでいる。
「…………それって、つまり、おれが入居者の代わりに給付金の申請をしろってこと? それはさすがに……マズいんじゃないの?」
 単純に手間だけを考えてもかなりの作業量だが、それ以前に、そもそも本人以外が申請することは法的に問題がある。こればかりは自己責任と言われても仕方ないところだろう。
 が――イトウくんが言いたかったのは、そういうことではないらしかった。
「もちろん、申請だの手続きだのは本人にやらせますけど、ほら、申請してそれが無事に承認されたとしても、現金支給までにはある程度時間がかかるじゃないですか? お役所仕事って……。そのへん、融通を利かせてほしいってことですよ」
 つまり、人によっては家賃の入金が少し遅れる可能性もあるが、そこは個別に事情を汲んだ上で配慮してほしい――ということだった。そういうことなら、ヤマダくんとしても否やはなかった。
「わかった。――それで、実際に入金が遅れそうなのは誰と誰?」
 ヤマダくんが重ねてそう訊ねると、
「……いやぁ、まだみんなと話してないので、わかり次第またご報告します」
 少し困ったような口調で、イトウくんはそう答えたのであった。

 ――それから1ヶ月半が過ぎていた。
 4月7日の7都府県(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県、福岡県)からまもなく対象地域を全国47都道府県へと拡大した緊急事態宣言は、当初の期限であった5月6日を過ぎても一向に新規感染者数が減らなかったためにいったんは月末までの延長が決まったものの、その後、5月14日にまず39県で解除され、さらに5月25日には残る8都道府県でも解除されることになった。
 最盛時には東京都だけで連日100人超、全国では1000人近い新規感染者が確認されたほどだったが、幸いなことにこの間、『バーデン-S』はもちろん、『バーデン-H』も、またヤマダくん夫妻の勤める会社でも、アオノさんとイシザキくんの勤務先でも、新型コロナウイルス感染症は発生していない。まあ、『バーデン-H』入居者全員の勤務先や家族・関係者まで一人ひとり調べたわけではないが……。
 それよりなにより、会社をクビになったり、自営業の廃業に追い込まれたりした入居者が一人も出なかったのは、ヤマダくんにとってありがたいことであった。もっとも、「収入が前年より大幅に減った」と言っている人はいたが、話を聞いてみると、ただちに喰うに困るというレベルではなかったし、それは多かれ少なかれ、誰もが似たような境遇に違いない。つまりは、想定される最悪の事態だけは何とか免れた――と言っていいのだろうが……。
 ――しかし。
 待てど暮らせど届かない“2つのモノ”のことが、ヤマダくんの脳裏にこびりついて離れない。緊急事態宣言が解除された、5月25日の午後もそうだった。
「今日も来てないなぁ……」
 郵便受けを覗き込みながら、思わずひとりごちるヤマダくんだった。
(つづく)

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