第84話 ヤマダくん、心に誓う!

「おはようございます」
 聞き覚えのある、それでいて最近耳にしていなかった挨拶の声を背中に聞いて、ヤマダくんはとっさに返事ができなかった。
「…………あ、――お、おはようございます」
 一瞬、口ごもりながら、かろうじて挨拶を返すと、ヤマダくんは声のほうを振り向く。挨拶してきたのは、彼の部署の若手社員であった。たしか入社2年目になるはずだが、ヤマダくんの部署に配属されたのは今年の2月からで、お互いあまりなじまないうちに在宅勤務に入ってしまった。もちろん、テレワーク中にもオンライン会議などで顔は合わせていたのだが、こうして直接顔を合わせるのはかれこれ2ヶ月半ぶりになる。
「――きみも今日から出勤?」
「あ、はい」
 後輩はうなずいて目を細める。愛想のいい笑顔をつくったのかもしれないが、あいにくその顔はマスクに覆われて口元はまったく見えない。もっとも、マスク着用はお互いさまだ。
「あ、それ――例の“アベノマスク”ですね?」
「うん――着けるのは、じつは初めてだけどね」
 鼻を覆うとアゴがはみ出す小ぶりの布製マスクの下で、ヤマダくんは苦笑してみせる。総理大臣肝いりの政府支給の布製マスクは、5月も末になってようやく届いたものの、3世帯が暮らす『バーデン⁻S』に届けられたのは、なぜか1世帯分の2枚だけだった。厚労省か自治体に申請すれば残る2世帯分ももらえるはずだが、現物を見てアオノ家もイシザキ家も「いらない」と言ったので、仕方なくヤマダ家が受け取ることにしたのである。もちろん、わざわざ不足分を申請したりはしていない。ついで言えば、1人10万円の定額給付金のほうは“アベノマスク”よりも早く、5月中旬には振り込まれていた。こちらはアオノ家もイシザキ家も30万円で、子どもがまだ生まれていないヤマダ家だけが20万円だったから、気を遣ってマスクを譲ってくれたのかもしれないが……。
 地元のS市内でも、不織布製の使い捨てマスクがだいぶ安く――といっても、2月頃に比べれば2倍近い価格なのだが――出回るようになっていたから、ヤマダくんも昨日まではそちらを使っていたのだが、今日はこうして「話題のネタ」になりそうだということで、わざわざこのマスクを着用してきたのである。
「それにしても――本当にひさしぶりだな」
 改めて――そうしみじみと口にするヤマダくんだった。

 ヤマダくんの本業の会社は、3月下旬から段階的に在宅勤務を導入していたが、4月15日付で全面テレワークに入った。その後、5月25日に東京都の緊急事態宣言が解除されると、少しずつ出勤する者も増えてきていたが、職場の“3密”を避けるために引き続き社内の半数程度は在宅勤務が継続された。ヤマダくんの場合は、主任の肩書を持つ管理職のはしくれであったから、ひと足早く6月1日から通常勤務に戻っていた。
 そして、7月1日付で、ようやく「会社命令による在宅勤務」は全面解除となったが、希望する者は引き続き在宅勤務が認められた。ヤマダくんの妻も在宅勤務者の一人である。本人は「出勤しても大丈夫だから」と気丈に言い張ったが、身重の妻を心配するヤマダくんが半ば強引に説得したのだ。彼女はすでに妊娠7ヶ月目に入っており、ヤマダくんとしては在宅勤務のまま、時期がきたら産休、そして育休に入ってもらう腹づもりであった。
 さらに、オフィス内でも“ソーシャル・ディスタンス”が制度化されていた。個々のデスクはそれぞれ30〜50cm程度の間隔を空けてレイアウトし直され、スペース的にどうしても間隔を空けられない席の間は、透明なアクリル製のパーティションで間に合わせの仕切りが設けられた。さらに、オフィスのエントランスには手指消毒用のアルコールが常備され、非接触型の体温計を設置して37.5度以上の熱のある者は入室禁止となった。頼りない、ささやかな備えではあるが、体力のある大企業であればともかく、ヤマダくんの会社程度の中堅企業では、これだけの準備を整えるのはかなりの負担だったに違いない。
 そのかわり――すでに3月末の時点で何人かいた派遣社員たちは契約を打ち切られ、パートや契約社員の一部も9月末の契約更新を見送られることになっていた。いや、ヤマダくんたち正社員にしても決して安泰とはいえない。すでに「夏期賞与はなし」との通達が回ってきていたし、この分では冬期賞与も出るかどうか怪しいものだ。それどころか、月々の給料さえ減額されるおそれがあった。
「まあ、会社が倒産するよりはマシか……」
 そんな、あきらめの声さえ社内のあちこちで聞かれるようになっていたのである。
「――ホントのとこ、大丈夫なんですかねぇ、うちの会社?」
 雑談めかして話しかけてくる後輩に、ヤマダくんは少々うんざりした気分で応えた。
「さあね。なるようにしかならないよ」
 返事にもなっていないことは承知していたが、ヤマダくんにしたところで、今はその程度のことしか言えない。気休めを言ったところで始まらないのだ。
「――それより、仕事だ仕事。仕事があるだけありがたいと思わなきゃ」
 そう――とりあえず、今はまだ目の前に仕事があった。これをしていれば、最低限雇用は保証される。給料も出る――はずだ。そう思わなければやっていられない。
「そんなもんですかねぇ……」
 まだぶつぶつ言っている部下を黙殺し、ヤマダくんはパソコン上でやりかけのファイルを立ち上げた。

 ――一日の仕事を終え、メールをチェックすると、ヤマダくんは定時に退社した。必ずしも残業禁止というわけではなかったが、人数が減っても残業するほどの仕事量ではなかったのである。前年同時期に比べて、おおよそ4割減というところか。これでも、多少は持ち直したほうだった。
 会社帰りにどこかに立ち寄るということもなく、まっすぐ帰宅する。以前は比較的空いていたはずの定時上がりの電車は、ほぼ満員だった。乗車する誰もが、夜の街にくりだそうという元気はないらしい。それもそうだろう。ここしばらく、「夜の街」での感染拡大が連日報道されており、都内の新たな感染者数はじわじわと増えてきていた。
 専門家の間では、「第2波」の到来はもはや時間の問題と言われている。彼らの提唱する「新しい生活様式」とやらは、はたしてどこまで効果があるのだろうか――。
(――いやいや、ヤケになっちゃいけない……)
 声には出さず、ヤマダくんは自分自身に言い聞かせるように胸のうちでひとりごちた。
 まったく、どちらを向いても明るい見通しはどこにもない毎日ではあったが――少なくとも、最悪ではない。むしろ、自分は恵まれているほうなのだとヤマダくんは思う。
 数日前のニュースでは、今回の“コロナ失業者”は200万人とも、それ以上とも言われている。ヤマダくんはクビになったわけでもなければ、会社が潰れたわけでもない。
 国内の累計感染者数は1万8000人超、全世界では1000万人超が感染して死亡者も50万人以上と言われる中、ヤマダくんの周囲では、職場にも家庭にも感染者は出ていない。ましてや、亡くなった人もいない。それに、何よりも――。
(――おれはもう、独りじゃないんだから……)
 ヤマダくんには、愛する家族がいる。
 最愛の妻がいて、妻のお腹の中にはまだ見ぬ我が子が育ちつつある。
 我が家である『バーデン⁻S』には、ともに暮らす仲間たちがいる。いや、彼らもまたヤマダくんにとっては大事な「家族」だ。ヤマダくんの双肩には、家族みんなの幸せがかかっているのだ。
「そうとも。負けてられるか――!」
 今日一日分の汗を吸い込んですっかり湿っぽくなった“アベノマスク”の下で、そう力強く心に誓うヤマダくんだった。
(つづく)

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