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第86話 ヤマダくん、ソワソワする

「早いもんだ……もう、そんな時期になるのか」
 郵便ポストに届いていた国勢調査の調査票を見て、ヤマダくんが思わずそんなつぶやきを漏らしてから、すでに10日余りが経過していた。
 10月7日まで、と締切には余裕があったこともあり、そのまましばらく放置していたのだが、在宅勤務が続く日々の中で、調査票はいつも目につくところに――これは、ヤマダくんの妻がわざとそうしておいたからだが――置かれていた。
 さすがに、いつまでも放置したままでは気分が落ち着かない。そこで、世間でいうシルバーウィークも明けたこの日、ヤマダくんはこいつを片づけることにしたのである。
(――それにしても……)
 ヤマダくんはふと、5年前の国勢調査のことを思い出す。当時は、まだ『バーデン-H』に住んでいて、まだ独身だった。また、『バーデン-H』はシェアハウスとして認知されていなかったらしく、その時点で8世帯が暮らしていたのに、調査票は1通しか届かなかった。しかたなく、ヤマダくんがあれこれ調べて、追加の調査票を送り直してもらったものだった。
 その点、今回はいつぞやの“アベノマスク”のようなこともなく、ちゃんと『バーデン-S』にはヤマダ家、アオノ家、イシザキ家の3世帯分が届いている。念の為、『バーデン-H』のシェアメイトリーダーであるイトウくんに問い合わせてみたが、そちらへも入居世帯分の調査票が届いているそうだ。
 在宅勤務とはいえ平日だったが、ちょうど昼時であった。今日の昼食は妻が用意してくれることになっていたので、ヤマダくんは安心して専用サイトからインターネット回答のフォームを開き、記入を済ませていった。

「――お疲れ様。お昼、支度できたよ」
 臨月間近の大きなお腹を抱えた妻が、キッチンのほうから声をかけてきた。少し前までは、ヤマダくんの仕事部屋まで呼びに来てくれたものだが、最近は家の中でもなるべく歩き回らないように言い聞かせている。食事も、7対3くらいでヤマダくんが用意することのほうが多い。今朝はだいぶ調子が良さそうだったので昼食の支度を任せてしまったのだが、それもぼちぼち限界かもしれない。
「いま行く」
 ひと声返事をしてから立ち上がると、ヤマダくんは急いでキッチンへ飛んでいった。案の定、妻はダイニングテーブルまで食事を運ぼうとしているところだった。
「――いいよ、おれがやるから座ってなさい」
 そう言って妻を席に着かせ、ヤマダくんは昼食の皿――今日は焼きそばだった――と麦茶のコップを手早くダイニングテーブルへ運んだ。
 夫婦差し向かいで席に着き、食事を始める。ここ数日、めっきり涼しくなってきたこともあってか、妻も、真夏の一時期のように食が細ることもなく、最近では出産に備えて体力をつけるべく、なるべくしっかり食べるように心がけていた。とはいえ、さすがに食べる速度はゆっくりで、ヤマダくんのほうが先に食べ終えてしまう。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
 そう言って立ち上がると、ヤマダくんは自分の使った食器を流しへ下げる。「お粗末さま」、と応じた妻のほうは、まだ皿に半分以上焼きそばが残っていた。あわてて箸の動きを早めようとする妻を制して、ヤマダくんは優しく言った。
「片づけはやっておくから、ゆっくりお食べよ」
「ありがとね」
 食べ終わってからテーブルの周りをうろうろしていると、妻を急かすようで気がひける。ヤマダくんはわざとのんびりした態度で、隣のリビングへ移動してテレビを点けた。
 ちょうど、気象情報の時間だった。一昨日から昨日にかけてゆっくりと北上していた台風12号は、関東にはほとんど影響がないまま、遠ざかりつつあるようだった。ちょうど1年ほど前、関東地方にも甚大な被害をもたらした台風15号、19号を思えば、なんということもなかったのは幸いだ。
 画面が切り替わって、次のニュースが始まったのを機に、ヤマダくんは妻を振り返った。ようやく食事を終えた妻が食器を下げようとしているのを見て、
「いいからいいから、座ってて」
 と声をかけると、すばやく食器を取り上げる。
「……あんまり、甘やかさないほうがいいよ。最近、ちょっと過保護なんじゃない?」
 下げようとした食器を手元から奪われた妻が、唇をとがらせて拗ねてみせる。もちろん、本気ではないのはわかっていたが、ヤマダくんは敢えて言った。
「わかってるって。――今だけ、特別だよ」

 食事を終えた妻がリビングのソファに移動したのを見届けると、ヤマダくんは手早く食器を洗い、仕事部屋に戻った。まだ、午後からの仕事がまるまる残っている。
 ちなみに、ヤマダ夫人は9月の頭から産休に入っている。4月上旬に在宅勤務に切り替えてから、かれこれ半年以上、会社には行っていなかったが、8月いっぱいは普通に在宅で仕事をこなしていたのだ。急にヒマになったものだから、最初のうちはせっせと家事に精を出していたのだが、大きなお腹をして掃除や洗濯に張り切る姿を見ると、ヤマダくんのほうが心配になってしまう。そのため、ついつい口出しすることになった。
「重たい物は持つな」
「姿勢をかがめるな」
「天気の悪い日は外に出るな」
 まあ、このあたりまでは常識の範囲でわからないこともないのだが……。
「散歩や買い物は夫同伴の場合に限る。一人で外出は禁止」
「洗濯機を回すのはいいが、洗濯物を外に干したり取り込んだりはおれがやるから。あと、床で畳むのはお腹を圧迫するからダメ、ソファに座ってやりなさい」
 このあたりになると、かなり行動制限がきつくなってくる。しまいには、
「刃物は危ないから触らないように」
「火を使うのは危ないから……」
 まるで小さな子ども扱いである。さすがに、ヤマダ夫人も黙ってはいなかった。
「いいかげんにしてよ! ご飯もつくれないじゃない」
 身重の妻を案じるのはいいが、いくらなんでもやりすぎだ。それで、ヤマダくんが家事を全部できるのならまだしも、週に1、2回は会社に出勤することになるし、在宅であっても勤務時間中はパソコンの前にへばりついていることが多い。なかなか、一から十まで全部というわけにはいかないのである。
「どうせ、入院したら何もできなくなるんだから、家にいる間は好きにさせてよ」
 今回は初産ということもあって、一応、予定日前日から入院させてもらうつもりで、入院準備はとうに済ませてあった。とはいえ、その予定日まで、まだ2週間以上もあるのだ。
 なまじ、コロナ禍で在宅勤務が多いのも考えものだった。会社に行っていれば、家でのことは妻に任せるしかない。家にひとりきりだったらそれはそれで不安の種だが、幸い、『バーデン-S』にはアオノ夫人もいればイシザキ夫人もいる。ふたりとも経産婦だし、面倒見もいい。いざというときには、ヤマダくんよりも頼りになる存在だ。
 ――とはいうものの。
 初めての妻の出産、そして初めての我が子の誕生を目前に控え、わかっていてもソワソワしてしまうヤマダくんだった。
(つづく)

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