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第88話 ヤマダくん、妻を気遣う

 ――けたたましい赤ん坊の泣き声が、夜の静寂を破る。
 声を聞いて反射的に飛び起きたつもりだったが、じっさいには、どうやら数分間は気づかずに寝ていたらしい。何故なら、たった今まで隣で寝ていたはずの妻がすでに起き出していたからだ。未明の薄闇の中で、妻らしき黒い影はベビーベッドのすぐ傍らにあった。
「……あ。ゴメンね、起こしちゃった?」
 かすれた声で妻がささやくのを耳にして、ヤマダくんはようやく意識が覚醒し始めるのを感じた。
「…………何時?」
 寝ぼけ声で問いかけるヤマダくんに、妻はまだぐずっている赤ん坊を優しくかき抱きながら答える。
「――まだ4時前だよ。いいから、寝てて」
「……いや。目、覚めたから――」
 言いながら、もぞもぞと布団を這い出そうとするヤマダくんを、妻は柔らかく――しかし、毅然とした口調で制した。
「ダメよ、寝てなさい。――時間になったら起こしてあげるから……」
「そういうわけにも……」
 いかない、と言いかけたところでふたたび意識が途切れる。妻のささやきは、それほどの強制力を持っているようだった。中途半端に掛け布団をはがしかけた姿勢で、もう一度寝息をたて始めたヤマダくんを見て、彼の妻はあきれたような息をついた。
 ゆっくりと揺らしていた腕の中で、いつしか赤ん坊がすっかり落ち着いた寝息を漏らしているのに気づいて、彼女は赤ん坊をそっとベビーベッドに戻す。替えたおむつをゴミ袋に突っこんで口を縛ると、彼女はようやく安心したようにベッドに戻り、夫の掛け布団を直してやりながら、自らもその中に潜り込んだ。

 目覚まし時計のスヌーズ機能が振動を伝えてくる。
 ――今度こそ、ヤマダくんは文字通りガバッという勢いで飛び起きた。
 目ヤニで貼りついたような瞼を無理やりこじ開けて文字盤に目をやる。そこに表示された時刻情報を脳が理解するのに1秒以上はかかった。
(――7時過ぎてる!?)
 思わず大声を出しそうになって、ヤマダくんはあわてて自制する。隣で寝ている妻は身じろぎもせずに熟睡していたし、寝室内に置いてあるベビーベッドも静かだ。声を出せばふたりとも起こしてしまいそうだ。焦る気持ちを抑えて、ヤマダくんはそろそろとベッドを抜け出した。足音を立てないようにスリッパは履かず、裸足で床に降り立つ。フローリングのひんやりした感触が、寝起きの意識をすばやく覚醒モードに変えた。
 ヤマダくんはそろりそろりと寝室を出て、洗面所に向かった。
 ――出産後、さらに2週間近く入院していた妻がようやく『バーデン⁻S』に帰宅してから、まもなく1ヶ月になろうとしている。その間、ヤマダくんの日常生活は、以前とはまったく違うものになっていた。
 夫婦の愛の結晶である愛娘――「マユ」と名づけた――は、今やヤマダ家の生活の中心であった。出生体重2618グラムの小さなちいさな赤ん坊は、いつしか体重4000グラムを超え、今も健やかに成長を続けている。抱き上げるたびに、腕にかかる重みは日に日に確かなものになっていく。それが嬉しく、また愛おしい。
 だが、その一方で――朝夜なくけたたましい泣き声を上げるマユの世話に追われている妻は、このところだいぶ疲労が溜まってきているように見えるのが、ヤマダくんは気がかりだった。現に、今朝も「起こしてあげるから」という言葉とは裏腹に、妻はまだ目を覚ましていない。ヤマダくんのほうが先に起き出すのは、このところ毎朝のことだった。
 それはいいのだ。夜泣きする新生児の母親が、朝起きられないのは当たり前だとヤマダくんは考えている。無論、そのことで妻に苦情を言ったことは一度もない。
 それなのに――妻のほうで気にするのである。気に病んでいる、と言ったほうがいいかもしれない。朝、すっかり身支度を整え、朝食も済ませたヤマダくんが、ベッドの妻に「行ってくるよ」と声をかけるたびに、妻は泣きそうな顔をしてみせるのである。
「ゴメンね……ゴメンね」
 申し訳なさそうにそう言いながら、せめて出かける夫を見送ろうと健気に起き出してくる。その姿は愛おしいが、それだけに辛くもある。ゆっくり寝かせておいてやりたいと思う。
 それで一度、朝、声をかけずに出勤したことがあった。
 だが、これはまったくの逆効果だった。金曜日の朝だったのだが、その週末、妻はずっと落ち込んでいた。ヤマダくんは、妻の気を引き立てようと土日を費やしてあれこれと話しかけたり、散歩や買い物に誘ったりしたのだが、妻は心ここにあらぬようすで何やら考え込んでいる。ついつい苛立ってしまいそうになり、そのたびに自制しながら、ヤマダくんもずっともやもやを抱えて過ごしたものだった。

 ――妻の状態が、いわゆる「産後うつ」と呼ばれるものかもしれない、ということにヤマダくんが思い至ったのは、数日前のことだった。
 たまたまネットで検索していて、そんなニュースを目にしたのである。その記事によれば、コロナ禍によって「産後うつ」を発症する産婦が急増しているらしい。もともと、日本では10人に1人くらいの割合で「産後うつ」と呼ばれる状態になる女性がいたという。それが、現在のコロナ禍以降、じつに4人に1人の割合になってきている――という調査結果が出ているらしいのだ。
 「産後うつ」は産後数週間から数ヶ月で発症し、産後の生活変化などの環境要因と、妊娠中に増加した性ホルモンの変化が関連していると考えられている。「産後うつ」を発症すると、女性は出産前に比べて「元気がない」「食欲がない」「興味関心が低下している」「判断が上手にできない」「睡眠が浅く夢が多い」「養育に過度の不安がある、」「感情的になりやすい」などの症状が見られる。最悪の場合、自殺や、我が子と無理心中を図ろうとすることもあるという。想像するだに恐ろしい。しかも、「産後うつ」に陥っている女性のじつに3分の2までが、自分がそういう危険な状態にあるという自覚がないというのである。
 多くの場合、身の回りに相談できる相手がいないことが原因になっているといい、シングルマザーや、夫が育児に無理解で非協力的であるケースが大半だというが、中には、身近にそういう相手がいても関係なく発症することもあるようだ。
 ヤマダくんの妻の場合、夫であるヤマダくんはそれなりに協力的であるつもりだし、それ以上に、自分が我が子の育児の当事者であるという意識もあるつもりだった。とはいうものの――。
(自分で「やってるつもり」「できてるつもり」というのは、じっさいにはアテにならないらしいからな……)
 ヤマダくんは自省する。マユの夜泣きに対しても、ヤマダくんが先に起き出しておむつを替えたり、ミルクを与えたりしたことは、10回に1回もない。ほとんどの場合、ヤマダくんが目を覚ました時には、妻がすでにやってしまっている。最初は自分も起き出して妻を手伝ったりもしたのだが、それはそれで妻にとっては居心地が悪いものらしい。
「いいから、寝てて――」
 と涙目で言われたこともある。そんな言葉を口にすることで、妻自身にも余計な罪悪感を抱かせてしまったのではないか――という反省もある。
 何にせよ、慣れない育児にもどかしさを感じているのは、自分だけではないようだった。

 ――頭の中でそんなことを考えながら、身体だけは機械的に動き、ヤマダくんは手早く朝食を済ませ、出勤準備を終えていた。
 12月もはや中旬――ヤマダくんの会社ではぼちぼち繁忙期も一区切りを迎える。このところの感染再拡大を受けて、一時期ほぼコロナ禍以前の状態に復していた出勤体制は、ふたたびテレワーク化に向けて動き出していた。繁忙期が過ぎれば、ヤマダくんの部署もテレワークへの再移行を予定しており、これから年末年始にかけては完全テレワークとなる見込みだ。
 そうなれば、もう少し妻の負担を減らせるかもしれない。
 ヤマダくんは寝室に戻り、朝の声かけのために、ベッドで寝ている妻をそっと揺り起こした。
(つづく)

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