シェアハウス コロナ 緊急事態宣言 延長1ヶ月 テレワーク

第89話 ヤマダくん、語尾を濁す

 今朝も、マユは元気いっぱいだった。
 産後3ヶ月を過ぎて、そろそろ新生児から一人前の乳飲み児――「一人前」というのもおかしいが――に成長しつつある愛娘は、必要なときにはちゃんと声を上げて自己主張するようになっていた。もちろん、言葉を話せるわけではないが、泣き声のニュアンスから「おなかが空いた」のか、「おむつが濡れている」のか、母親はもとより、未だ自覚の追いついていない父親のヤマダくんにもある程度わかるようになってきていた。
 今朝の泣き声は、そう――「おなかが空いた」だ。
 そう判断したヤマダくんが妻に声をかけようとすると、妻はもうとっくに動いていた――おむつを交換するために。
(――おれもまだまだ、だな……)
 内心でこっそりそう反省している間に、妻は手早くおむつの交換を済ませ、娘を抱き上げてあやしている。見ているだけで思わず目尻が下がってくるような、幸せな光景だった。
「――ねぇ」
 腕の中のマユの顔を覗き込んだまま、こちらを振り向きもせずに妻が言う。
「ん……?」
「来週の健診だけど、お休み取れそう?」
 妻の質問は、病院の定期健診の日にヤマダくんが付き添えるかどうか、だった。育休中の妻はともかく、ヤマダくんのほうは通常勤務なので、日常の通院は妻に任せきりだったが、健診日はやや時間が長くなるので、妻の疲労を考えて、可能な場合はヤマダくんが病院までの送り迎えをすることにしていたのである。
「金曜日だっけ? ――今のところは大丈夫なはずなんだが……」
 そう答えつつも、ヤマダくんの語尾はいくぶん曖昧だ。このところ、社内のテレワーク率が五割強と増えてきている関係で、管理職の出勤回数は逆に増えつつある。ヤマダくんも主任から係長に昇進したことで、在宅勤務がめっきり減って、週3〜4日、場合によっては週5日フルで会社に出勤することも珍しくなくなった。
 このご時世、変わりなく仕事があるだけでもありがたいことは重々承知しているが、リストラで非正規社員が限りなくゼロに近づいているだけに、正社員への業務負担は日に日に重くなっており、有休の取得も難しくなっていた。
 来週の金曜日については、先月末から有休申請を出してあったのだが、木曜日が祝日ということもあって部下からの有休申請が重なり、正直なところかなり微妙な見通しだった。
「……一応、月曜日にははっきりすると思うけど」
 確約できないのが我ながら辛い――とヤマダくんとしては語尾を濁すしかなかった。

 ――昨春に続いて、二度目の緊急事態宣言が発出されてから1ヶ月が経とうとしていた。
 とはいえ、今回の宣言は「とりあえず、言ってみました」感が強い。時短営業を強いられる飲食店や、医療崩壊寸前とされる病院関係を除いて、その他の業界ではあまり目立った変化が感じられない状況だった。
 ヤマダくんたちの会社も、1月までは昨春同様のテレワーク強化月間として、オフィスへの出勤者を減らして対応していたのだが、実際問題として業務上出勤しなければこなせない業務もあり、特に管理職への負担は増していた。
 ヤマダくんの部署でも、課長は毎日オフィスに出勤していたし、課員たちは交替で週に最低1日は出勤していた。昨年末の人事異動で、係長が隣の部署の課長代理に異動したため、主任4年目だったヤマダくんが係長に昇進した。役職手当はわずかばかり――月にたったの5000円だ――上がったものの、業務負担はそれ以上に増し、出勤日はもちろん、サービス残業も目に見えて増えていた。
 だが、それでも「仕事があるだけありがたい」「忙しいのは恵まれている」と前向きに捉えるしかない現状だった。係長の業務といっても、実感としては「余計な雑用が増えた」としか思えないヤマダくんだったが、会社の業績を考えれば、今は耐えるしかない。
 ただ、幸いと言えば言えるのは、懸念された妻の「産後うつ」が、このところ小康状態にあることだった。赤ん坊が成長して、ある程度の意思疎通が可能になったことが良い方向に作用したのかもしれない。無論、いずれ「イヤイヤ期」を迎えればまた育児ストレスが溜まることになるかもしれないが、少なくとも当座はひと安心といったところだろう。できればあと半年くらいはこのまま落ち着いてほしい――と切に願うヤマダくんだった。

 ――2021年2月2日。
 この日、東京都をはじめ10都府県の緊急事態宣言の一ヶ月延長が正式に決定した。
 すでに数日前の時点で、当初の「2月7日まで」という宣言期間の延長が取り沙汰されていたこともあり、大きな混乱こそなかったものの、やはり国の正式決定を受けて、社内はいくらか慌ただしい雰囲気に包まれていた。
 課題となったのは、テレワーク体制のさらなる強化であった。実際、昨春に比べて都心への通勤電車は明らかに混雑している。自社だけの問題ではないとはいえ、少しでも出勤者を減らし、通勤電車の「密」を少なくすることは、社会の一員としての使命である。
「……と、まあ、会社ではそう考えているわけだ」
 何やら含みのある言い方で、課長がヤマダくんに話しかけてきた。
「はあ……」
 ヤマダくんは不得要領に応じる。何を言われようとしているのか、察しはついたが、ここは相手に言わせるべきだろう。
「うちの課としても、現状出勤者の5割減は達成しているわけなんだが、これでは足りないというのが社長のご意見なんでね」
「……………」
 相槌すら打たず、ヤマダくんは黙って先を促す。
「現状の出勤体制を見直して、できれば8割減――最低でも7割減で業務を維持するとなると、具体的にはどんなシフトを組んだら実現できそうかな?」
 ――予想通りの展開だった。ヤマダくんたちの部署は、昨年からある程度業務のテレワーク移行を進めていたが、人手も予算もない中で、これ以上のテレワーク化は難しいというのが現状だ。そんなことは課長も百も承知のはずである。それでも、そう言わざるを得ない状況なのだろう。
「そうですね……」
 時間稼ぎにもならない相槌を返しながら、ヤマダくんは懸命に頭をひねっていた。もちろん、解決策は決まり切っている。業務が維持できないのであれば、業務そのものを減らすしかない。それができないのであれば、せめて納期を先延ばしして、業務処理のスピードの遅れを容認できるようにするしかない。そのためには――。
「……課長と私で、客先を一件一件訪問して納期交渉するしかないでしょうね」
 できれば口にしたくはないセリフだった。「私と課長」ではなく、「課長と私」と相手を先に出したのがせめてもの腹いせだ。あまり意味のない抵抗ではあったが。
「……やはり、キミもそう思うか」
 その言葉で、課長もとっくにそう考えていたことをヤマダくんは察した。現実問題、それしかないはずだった。客先が受け入れてくれればいいが、ダメならそこの仕事は切られる。部署の業績は下がり、会社全体の業績も今以上に悪化する。その結果、さらなる人員削減につながりかねず、最悪の場合、会社の存続も危うくなる……。
 それでも、そうせざるを得ないのがごまかしようもない現状だったのだ。
「――いささか、古臭いやり方だが……」
 課長はそう言いながら、デスクの引き出しを開けて中から茶封筒を取り出した。表に「退職願」の文字が読み取れた。本当に古いやり方だ。昭和かよ――とヤマダくんは内心でつぶやきつつ、目の前の課長の顔をまじまじと見る。まだ50歳前の課長は、さすがに平成入社のはずだったが。
「……案外、あの部長にはこういうやり方のほうが効きそうだからな」
 いたずらを見つかった子どものような表情を浮かべて、課長はきまり悪そうに言った。「退職願」を突きつけて部長と交渉し、今の件の承認を取りつけようというのだろう。果たして、どこまで効果があるかどうかはわからないが――。
「万一のときは、キミには迷惑をかけるかもしれないが……」
 ますます昭和の浪花節だ。だが、さすがにヤマダくんもツッコむ気にはなれない。
「……行ってくる」
 悲壮な面持ちで席を立つ課長を、ヤマダくんは頭を下げて見送るしかなかった。
(つづく)

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