シェアハウス コロナ 緊急事態宣言 再延長 2週間 テレワーク ノーマスク

第90話 ヤマダくん、同時多発!?

 いつもの通勤電車は、今朝もあいかわらず混雑していた。
 先週までと比べても、あきらかに乗客数は増えている。3月に入り、1ヶ月間延長した緊急事態宣言も翌週には解除となる見通しだった――少なくとも、3月3日を迎えるまでは。
 状況が一変したのは、3日の午後である。その前夜あたりから、東京都知事が不穏な発言を漏らしていたが、この日の午後に至り、突如として政府は「1都3県の緊急事態宣言を2週間程度延長する」との方針転換を発表したのである。
 まさに青天の霹靂だった。延長の理由については「新規感染者数の減少が目標値に至らず、病床の逼迫状況が続いているため」とのことだったが、この期に及んで文言通りに受け止めている国民はそれほど多くはあるまい。「都知事らによる延長要請が出される前に、政府が先手を打ってイニシアチブを取ろうとしている」と解釈している者が大半だった。その解釈が正しいかどうかはさておき、大多数の国民にとって、政府の方針は受け入れざるを得ない“錦の御旗”だ。お上に言いたいことは山ほどあっても、けっきょくは従うしかなかった。
 ただし、従うにしても、一人ひとりに温度差があることは否めなかった。特に、宣言延長で直接的な影響を受ける飲食業界と、それ以外の業界とでは歴然とした温度差があった。そして――車内で密着している乗客たちの顔にも、その温度差がはっきりと感じられた。
「だいたい、総理がだね――」
「いや、それもそうだけど、問題は――」
「何を今さら――」
「わかってないんだよ――」
 先週までとは一変して、車内のそこここで乗客同士の会話が発生していた。マスク越しのくぐもった小声ではあったが、全体としてはかなりの音量となる。中には、電車の振動音や周囲の会話に負けないように声を張り上げる者もチラホラいた。しゃべっている間に興奮してマスクがずれ、鼻や口元が露出しかかっている者さえいる。これも緊急事態宣言延長が原因とすれば、本末転倒も甚だしかった。
 会話に参加していない乗客たちは、手元のスマホを覗き込むようにうつむき、マスクの中でそっとため息をついていた。声高に会話している連中に対しては、内心では眉をひそめているに違いないが、ことさら他人の会話に割って入って注意を促す者はいない。そんなことをすれば、自分までくだらない論争に巻き込まれてしまう。それどころか、苛立った相手に暴力を振るわれるリスクもあった。満員電車の中に逃げ場はないのだ。
 無論――ヤマダくんも、そのひとりだった。ヘタに他人に関わり合って、自らトラブルを招き寄せるようなマネは決してしない。それが小市民なりの処世術なのだ。
 しかし、まあ、通勤電車の中ならそれでいい。降りてしまえば行きずりの赤の他人だ。問題は、会社に出勤した後のことだった。

「――おはようございます!」
 出勤早々、朗々とした大声がヤマダくんに浴びせられた。隣の部署の若手社員のひとりだ。そちらを振り向くまでもなく、マスクを外していることがわかる声音だった。
「おはよう」
 マスクの中でもごもごと挨拶を返す。相手はやや不満そうだったが、ヤマダくんは無視して通り過ぎようとした。
――と。
「声が小さいですよ、ヤマダ係長」
 背後から、ねちっこい声が追いかけてくる。挨拶してきた若手社員ではない。その直属の上司――すなわち、隣の部署のコイケ課長代理であった。
(そう、こいつが問題だ……)
 ヤマダくんはうんざりした表情を浮かべる。知らない相手ではない。それどころか、昨年末までは同じ部署に所属していた先輩であり、ヤマダくんの前任の係長だった。年明けから隣の部署の課長代理となり、偶然にも都知事と同じ苗字を持つこの男こそ、着任早々、自部署のメンバーに対して「社内ではマスクを外してもよい」と勝手に許可を出した張本人だ。
 外してもよい――というからには、強制ではない。だが、そう言うコイケ課長代理自身がマスクをしていないとなれば、それは実質的に部下への命令に等しかった。現に、彼の部署のメンバーは全員、社内に一歩入ったとたん、マスクを外してしまっている。そのまま、所用で外出したり、退社する時までは、社内をノーマスクで闊歩している。他の部署の人間がいくら苦情を言っても聞き入れない。
 厄介なのは、隣の部署はオフィス内でも人数が多い大所帯ということだった。コイケ課長代理は部下のテレワーク申請に良い顔をしないので、社内でもテレワーク率はもっとも低く、9割以上のメンバーが出勤してきている。その結果、現在オフィスに出勤している3分の1近くの人間がノーマスクという状況になっていた。
 無論、彼らにも言い分があった。「全員、PCR検査で陰性という結果が出ている」というのが彼らの大義名分である。PCR検査受診はコイケ課長代理の指示で、全員が自腹である。受診方法は問わないので、費用の安い民間の簡易検査で済ませている者が大半だった。たしかに何もしていないよりはるかにマシだったが、簡易検査は「検査したその時点において陰性だった」という証明でしかなく、その後も感染しないことを保証するものではない。にもかかわらず、コイケ課長代理は「自分たちは間違いなく陰性なのだから、何の問題もない」と主張する。もちろん、オフィスへの入室前には毎日、検温とアルコール除菌――これは以前、総務課長の尽力で購入した機械で、入口に設置してある――をきちんと行っている。そうまでして感染防止を徹底している以上、社内でマスクを着けないくらいはかまわないではないか、というのである。
 こうしたコイケ課長代理の主張は、「テレワーク体制をこれまで以上に強化し、出勤者数8割減、せめて7割減を目指せ」という社長の考え方とは真っ向から対立するものだった。
 昨年末までは彼の直属の上司だったヤマダくんの部署の課長が、コイケ課長代理にそう言ってたしなめたことがある。だが、彼は歯牙にもかけなかったという。
「それはもちろん、社長の方針は承知していますよ」
 部下だった頃から課長とはそりが合わなかったコイケ課長代理は、今や立場は対等だとばかり、逆に課長に喰ってかかってきた。
「――しかし、その結果はどうです? そちらの課では対応に四苦八苦した挙げ句、前月の数字は大幅に下がっているじゃありませんか」
 その指摘自体は事実であったから、課長は押し黙るしかなかった。ヤマダくんたちの部署では、社長の方針に従うために業務量を調整しており、課長が社内の根回しのために「自らの進退を賭けて」部長と交渉したのはつい先月のことだ。その後、課長とヤマダくんは客先を回って納期の延長交渉に奔走した。こんなご時世だから、快く応じてくれる顧客も多かったが、中には契約違反をタテに値引きを要求してきたり、支払いを先延ばしされることもあって、業績の低下は免れなかった。
 それに対して、隣の部署では1月、2月と順調に目標数値を達成しており、この調子で3月も達成できれば、年度替わりの4月1日からは「代理」の2文字が取れ、晴れて正式に課長に昇進する可能性も高い。
 もっとも、コイケ課長代理の「出勤奨励・社内ではノーマスク」主義が彼の部署の好調の理由である――というのも根拠のない話である。営業でも何でも、結果が出てくるのはだいたい、1〜2ヶ月は後のことだ。すなわち、1月と2月の業績は、昨年暮れまでの前任の課長が蒔いた種が芽吹いた結果に過ぎず、コイケ課長代理は「後から来て、いいとこ取り」しようとしているだけ、という見方もあるわけだ。
 いずれにしても、まもなく年度末を迎えるというこの時期に、緊急事態宣言の延長が決まったからには、こちらもそれなりの対応をしていくほかはない。同じオフィスの隣の部署とはいえ、「よそ」に構っているヒマはないのだ。
 朝っぱらから絡んでくるコイケ課長代理を適当にやり過ごして、ヤマダくんはさっさと自分の席へ向かった。

 ――その日の業務を終え、ヤマダくんが帰ろうしたとき、ふと、会議室が何やら騒がしいことに気づいた。
 すでに、定時を30分過ぎている。ヤマダくんたち管理職はともかく、一般社員は残業手当削減のために会社は定時退社を推奨していた。どうしても残業しなければならない場合は上司に申請することになっていたが、部署によっては必ずしも徹底されていないのが現状だ。彼の部署では、外出先から直帰の連絡があった課長を含めて、ヤマダくん以外のメンバーは全員退社していた。
 だが、隣の部署の方に目をやると、デスクの上の乱雑さからして、まだ何人も残っているようだ。してみると、会議室で騒いでいるのはコイケ課長代理の部署の連中らしい。
(――何があった……?)
 脳裏にかすかな不安がよぎる。だが、「巻き込まれたくない……」という思いが不安を上回った。漏れ聞こえそうな声に耳を背けて、会議室の前を素通りしたヤマダくんは、そのまま急ぎ足で会社を出た。
 どうやらやり過ごせたか――と、マスクの下で安堵の息をついたヤマダくんだったが、スマホを取り出して、妻に「今から帰る」のメッセージを送ろうとLINEを立ち上げると、何件かの未読メッセージが届いているのに気づいた。今日の午後は何かと仕事がバタバタしていて、チェックするヒマがなかったのである。
 まず、妻から1件――これはまあ、いい。
 だが、シェアハウス『バーデン-S』の同居人であるイシザキくん、アオノさんからそれぞれ1件――これは? 彼らは、いつもならLINEで連絡など寄越しはしない。帰宅してから直接口頭で伝えるか、緊急の場合は電話をかけてくるはずだ。
 さらには、ヤマダくんが所有するもう1軒のシェアハウスのシェアメイトリーダー、イトウくんからも……?
(おいおい――おれがいないところで、いったい何が起こっているんだよ……!?)
 職場での面倒ごとはやり過ごせたつもりのヤマダくんだったが、一歩会社を出たとたん、プライベートでの面倒ごとが同時多発で押し寄せてきたようであった。
(つづく)

ログイン

ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失


シェアハウス大家さん
倶楽部(無料)

シェアハウスで不動産投資に踏み出すサラリーマンやOLの皆様を応援する会員制プログラムです。ご登録いただくと各種不動産投資情報やサービスを無料提供致します。
入会申込(無料)