シェアハウス コロナ まん延防止等重点措置 第4波 緊急事態宣言 テレワーク ノーマスク

第91話 ヤマダくん、渦中に立つ?

「――これが、マンボウ……ねぇ?」
 先週までとさして変わりばえのしない満員電車に揺られながら、ヤマダくんは声に出さず胸の奥でぼやいていた。正確には、「まん延防止等重点措置」とか言うらしいが、そんなことはどうでもいい。東京都がふたたび、新型コロナウイルス感染症の拡大防止の切り札として導入した政策は、ヤマダくんたち庶民にとってはまるっきりピンとこないものだった。
 今にして思えば――昨年初めて実施された「緊急事態宣言」は、それなりに効果を実感できないでもなかった。当時はやはり、どこかズレているように感じたものだが、国も国民も手さぐりの中で、爆発的な感染拡大をかろうじて喰い止めることができた……ような気がしないでもない。実際には、あの時点ではまだ、本格的な感染拡大は起こっていなかっただけなのかもしれない。それでも、日々報告される新規感染者数の減少傾向は、国民感情を慰める効果はあったし、「今だけ我慢していれば、そのうち何もかも元通りになるだろう」という期待感もあった。
 それが、今はどうだ? 東京都では毎日毎日、400人も500人もの新規感染者数が伝えられ、その数はいつまで経っても一向に減らない。大阪ではついに1日1000人を超え、「第4波」の到来を断言する専門家も多い。それでいて、1月から3月まで続いた緊急事態宣言が解除されるや否や、街中は堰を切ったように人波であふれ、4月12日から新たに「まん延防止等重点措置」を実施すると発表されたとたん、その前週末には「駆け込み」と称してこれまで以上に繁華街へくり出す連中が増えたという。
 そして、いざ「マンボウ」が始まっても、通勤電車の混雑はほとんど変わらないのである。まあ、ヤマダくん個人の生活パターンからすれば、夜の繁華街を出歩くことなど、20代の頃に比べてめっきり減っていたから、あまり影響を実感できないだけなのかもしれない。その意味では、コロナ禍が始まる以前に『バーデン⁻S』を購入し、生活の拠点をS⁻市に移していたのは不幸中の幸いだった。もし、現在も東京郊外の『バーデン⁻H』で生活していたとすれば、そもそも1年前に会社がテレワーク導入を決定した時点で手詰まりになっていただろう。
 その『バーデン⁻H』に――ヤマダくんは先日、ほぼ1年3ヶ月ぶりに顔を出すことになった。それは、シェアメイトリーダーを任せているイトウくんの要請によるものであった。

 ――ついに、来るべきものが来た。
 3月7日、日曜日――その日、ヤマダくんは悲壮な覚悟を固めていた。
 その2日前、イトウくんからの第一報を受け取った時から、こうなることはわかり切っていた。だが、いざその場に立ち会うことになると、ヤマダくんは震えを抑えることができなかった。
 感染者の発生――それが、シェアハウス運営において致命的な出来事であることは言うまでもない。すでに、当の感染者を含めた全入居者がPCR検査を済ませており、他の入居者については陰性が確認されていたのだが、それは気休めでしかない。検査は複数回行うことになっており、まだ1回目の結果しか出ていないのだ。
 感染者は、203号室のタバタさんだった。ヤマダくんの妻の旧友であり、『バーデン⁻H』の入居者の中では最古参である。彼女は無症状ではあったが、数日前に職場で行われたPCR検査で陽性となったため、自宅待機となっていた。そして、濃厚接触者である他の入居者全員のPCR検査を実施するとともに、『バーデン⁻H』内の徹底消毒が行われた。これに伴い、陰性が確認された入居者のうち、すでに204号室のスギシタさん、205号室のヨシカワさんが退去を決定し、次の週末にも荷物を引き払うことになっていた。他の入居者の間にも動揺が広がっており、103号室のタケカワくんも「引っ越し先が見つかり次第、退去したい」との旨を申し出ていた。
 幸い、イトウくんのほか、201号室のカトウさん、102号室のマツナガくんは当面残留するとの意向を表明していたが、それも今後の状況次第だろう。
 一昨年のクリスマスパーティ以来、ひさびさに訪れたヤマダくんは、マスクを二重につけ、雨合羽のフードを目深にかぶり、両手にゴム手袋をはめるという完全防備スタイルだ。さらに、持参したビニールスリッパをはき、除菌用のアルコールスプレーを全身に念入りに吹きつけてから、ようやく屋内に足を踏み入れる。
「……ヤマダさん、やりすぎ」
 素顔にマスクをしているだけのイトウくんがあきれ気味に揶揄したが、
「家には赤ん坊がいるからね」
 ヤマダくんは歯牙にもかけない。どんなに用心しても、しすぎるということはないのだ。
「これでも、一昨日から徹底的に消毒してるんですよ」
「それでも、さ。――イトウくんも親になればわかるよ」
 さすがに言い訳するような口調でそうつけ加える。ヤマダくんとて、オーナーとして、自らの所有物件である『バーデン⁻H』をさながら汚染区域のように扱うのは本意ではなかったが、万が一にも自宅にウイルスを持ち帰るリスクを冒したくはなかったのだ。少なくとも、この家の中には現在も感染者がいるのだ。仮に感染したタバタさんを追い出したとしても、問題は解決しない。彼女の陰性が確認され、他の入居者たちにも感染が拡大していないという事実が完全に証明されない限り、ここは危険地帯なのだ。
 感染確認以降、タバタさんの室内動線は他の入居者と完全に分け、2階にあるトイレとシャワールームは彼女専用として、使用するごとに徹底的に消毒するようにさせていた。1階のキッチンはもちろん、共用の冷蔵庫と洗濯機は当面使用禁止。会話はスマホ越しに行い、買い物や食事は201号室のカトウさんかイトウくんに頼むことにしているという。
「……しばらくは不自由をかけることになるけど、どうか、辛抱してください」
 ヤマダくんは全員に頭を下げた。特に、カトウさんはトイレもバスルームも1階の男性用のものを使用してもらうことになる。男女共用シェアハウスとしては好ましい状況ではなかったが、「逆よりはマシだから……」ということで納得してもらった。つまり、2階の女性用の水周り設備を男性入居者が使うよりはいくぶんマシということだ。
 ヤマダくんはさらに念入りに室内各部を消毒して回り、差し入れとして買ってきた除菌グッズやレトルト食材などを段ボールひと箱分置いて、引き上げることにした。玄関のドアを半分開けて、着用した雨合羽やゴム手袋、ビニールスリッパとマスク2枚を手早くゴミ袋に放り込む。最後に、ふたたび念入りに手指と全身にアルコールスプレーを吹きつけ、新しいマスクをつけて、ようやく外に出る。ゴミ袋は二重にしてゴミ置き場に出した。
 これでやっとひと区切り、だ。その後、『バーデン-S』に帰宅してからも、改めて念入りな消毒を行い、家族や同居者たちと顔を合わせる前に着ていた衣類を全部脱いで洗濯し、そのまま入浴して全身をくまなく洗い清めたことは言うまでもない。自分でもやりすぎと思えるくらい徹底したつもりだったが――妻はそれから数日間、ヤマダくんの側に娘を近づけようとしなかった。

 一方、『バーデン-S』の同居者たちもここ数日間、ヤマダくんをはじめとするヤマダ家の人間とはなるべく顔を合わせないようにしていた。これは、ヤマダくんが感染者の出た『バーデン-H』へ行ってきたこととは関係ない。むしろ、彼ら自身に起因する事情であった。
 もちろん、アオノ家やイシザキ家に感染者が出たわけではない。両家の主であるアオノさんとイシザキくんは同じ職場に勤めているのだが、彼らが働く職場で感染者が発生したというのである。ふたりとも濃厚接触者ではなかったが、念のためPCR検査を受診しており、1回目はいずれも陰性だったものの、2回目の検査結果がまだ出ていなかったのだ。さらに、全社員を対象とする1回目の検査で複数の陽性者が出たことを受けて、近くワクチン接種が行われることになったらしく、それが済むまではなるべく第三者との接触を控えるように通達があったという。
 つい半月ほど前までは、身近に感染者がいなかったこともあって、どこか他人事のようにコロナ禍を見ていたヤマダくんだったが、ここへきて突然、渦中に立たされることになり、自分自身の問題として考え直す必要に迫られていた。本当に、こんなことがいつまで続くかわからない。
 ――にも関わらず。
 通勤電車は今日もごった返している。聞けば、ツイッターでは連日「満員電車」がトレンド入りしているとか。
 職場の最寄り駅が近づくにつれ、ヤマダくんの気はいっそう重苦しく沈んでいった。
 出勤したらしたで、また面倒な連中の相手をしなければならない。隣の部署のコイケ課長代理――けっきょく、「代理」の2字は取れていない。3月度は彼らの部署でも目標未達となったためだ――はあいかわらず、社内ノーマスク主義を堂々と主張している。彼らにとっては、緊急事態宣言の延長も、まん延防止等重点措置もどこ吹く風だった。
 さすがに、3月度の目標未達で一時期ほどの勢いは削がれていたが、自部署においては出勤奨励・社内ノーマスクを継続している。お陰で、4月に入社したばかりの新卒社員の1人が、入社1週間で自主退職を申し出たくらいだ。
「すぐ辞めるような根性のない奴は、どの道長続きしなかったはずだ――」
 そんなことまで放言しているらしい。まったく頭の痛い存在だった。
 だが、その朝出勤したヤマダくんは、そこで意外な光景を目撃することになった。
 いつもなら声高に挨拶してくる隣の部署の社員たちが、妙におとなしいのだ。見れば、皆マスクをしっかりつけて、どこか顔色が悪い。心なしか、人数も少ないようだ。
「……おはよう。どうした、何かあった?」
 ヤマダくんのほうから声をかけてみると、気まずそうに顔を伏せる者もいた。
(――まさか……?)
 嫌な予感がした。
 当たらなければいいと祈りながら、答えをくれそうな相手を目で探す。
 と――近づいてくるヤマダくんの姿を認めて、こちらを振り向いた顔があった。見知った顔は総務課長のものだ。ただし、別人のように焦燥した青い顔をしている。
「ああ、ヤマダ係長。こっちへ来ないほうがいいよ」
「――何ごとですか?」
 もはや半ば以上、嫌な予感が的中したことを確信しつつ、ヤマダくんは敢えて質問した。総務課長の答えは、彼の予感を肯定するものだった。
「コイケ課長代理が昨夜、入院したんだ――」
(つづく)

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