シェアハウス コロナ 緊急事態宣言 テレワーク ワクチン接種

第92話 ヤマダくん、割り切る!

 カーテン越しに朝の気配を感じ、ヤマダくんはベッドの中でかすかに身じろぎした。
 寝起きのぼやけた視界で、枕元の目覚まし時計を捉え――反射的にがばっと身を起こしかける。危うく声を上げそうになったのはかろうじて自制したものの、一瞬で完全に目が覚めていた。
 時計の針は、とっくに朝7時を回っていた。今すぐ飛び起きて、朝食抜きで身支度を整えて家を飛び出したとしても、出社定時には1時間以上遅刻してしまう……そんな脳内イメージをあわてて打ち消す。深呼吸をひとつして、自分自身に言い聞かせる。
(――今日は大丈夫だ。いや、今日だけじゃない。今週はもう、ずっと大丈夫なんだ……)
 そう。少なくとも、週末まではおっかなびっくり満員電車で通勤する必要はない。来週は1日だけ出社する可能性もあったが、それも現時点では流動的だ。うまくいけば、今後も当分の間、月に1回程度の出社で済むかもしれなかった。

 ――昨年から数えて3度目の緊急事態宣言がまたもや延長と決まった、5月7日。ヤマダくんの会社では、昨年並みの「完全テレワーク体制」に移行することが事実上決定していた。もっとも、厳密に言えば「完全」でも何でもなく、一部の従業員はあいかわらず出社していたのだが――社長の方針として「全従業員のテレワーク実施率80%超」という目標が打ち出されており、これに伴い、現在の本社ビルを売却し、より小規模なコンパクトビルへ移転することも検討されていた。実際の移転時期は秋頃になりそうだが、新本社では通信機能を充実させ、「基本的に、出社しなくても業務遂行が可能となること」を前提とした新たな勤務体制を確立したいというのが社長の考えであった。
 ヤマダくんの所属部署でも、課長以下の全員が顔を揃えることは1〜2ヶ月に1回程度とし、日常の業務は個々が自宅、もしくは最寄りのサテライトオフィスで行うことになった。当面は準備期間となるが、もともとヤマダくんたちの部署はテレワーク実施率が社内でも高い方だったので――これにはリーダーである課長個人の人柄が大いに関係している――いわば「全社のモデルケース」となることを社長は期待しているという。
 直接的なきっかけは、ヤマダくんの隣の部署のコイケ課長代理の入院騒動だった。
「出勤奨励・社内ノーマスク主義」を提唱していたコイケ課長代理本人が新型コロナウイルスに感染したことが判明し、しかも重症化して入院することになったのは1ヶ月半ほど前のことだった。本人は「PCR検査で陰性」だったことを錦の御旗にしていたが、よくよく聞けば民間の簡易検査を1度受診したに過ぎず、その後も感染リスクの高いとされる行為を平然とくり返していたらしい。さすがに通勤や客先への訪問時はマスクを着用していたようだが、退社後は時短要請・休業要請を無視して営業している飲食店に出入りし、アルコールが入るとマスクを外したまま千鳥足で繁華街をうろつき、周囲のひんしゅくを買っていたという。重症化したことは気の毒というほかないが、不運とは言えない。どちらかといえば自業自得だろう。なお、コイケ課長代理は3週間ほど入院することになり、先日無事に退院したものの、すっかり部下や同僚からの信頼を失い、上司からは出社を控えるように厳命されたため、現在は事実上「自宅謹慎」のような状態にあるそうだ。
 コイケ課長代理の入院の翌日、総務部長の主導によって社内の徹底消毒が実施された。濃厚接触者である彼の部下たちには再度の、そして、ヤマダくんたちの部署を含めた周囲のメンバーも全員、PCR検査を受診することになった。幸い、社内で第2第3の陽性者は発見されておらず、ヤマダくん自身も2度続けて陰性が確認されたため、ホッと一息ついたものだが――念の為、基礎疾患のある全従業員は各自でめいめいワクチン接種の予約を取りつけるように指導された。
 こうして、隣の部署の問題はとりあえず解決したのだが――ヤマダくんをはじめ、基礎疾患のない若手の従業員たちは、ワクチン接種を希望していてもなかなか予約が取れない状況が続いていた。そうこうするうちに5月25日――3度目の緊急事態宣言発出から1ヶ月が経過し、当初「5月末まで」とされていた延長期間は「6月20日まで」と、さらに3週間程度の再延長が検討されはじめていた。

「――そんなわけで、当面はできるだけ出勤しない方向で落ち着いたから」
 朝食の席で、ヤマダくんは妻に簡単に社内事情を説明した。
「そうなんだ。それはよかった……でも」
 妻はどことなく浮かない表情だ。早いもので、彼女が出社しなくなってからもう1年以上が過ぎている。育児休暇中である妻は、身分としてはまだ立派な正社員なのだが、本人の気分としては、もはや専業主婦のようなつもりでいるのかもしれない。
「会社がそんな状態だと、私、職場復帰できるのかなぁ……?」
 妻の不安も理解できないわけではない。育児休暇は社員の正当な権利に違いないが、それも会社が存続してこその権利だ。もし、会社の経営がこのまま傾いたら、将来的には大々的なリストラが断行されることもありえない話ではなかった。そうなったら、現時点で実働メンバーではない彼女は、真っ先にリストラ対象になるかもしれない。
「――今、そんなことを考えていても始まらないよ」
 ヤマダくんとしてはそう言うしかない。第一、それを言い出したら、ヤマダくん自身だって必ずしも身分が安泰なわけではないのだ。会社が倒産すれば、一係長に過ぎないヤマダくんも当然、失業することになる。一応、個人の資産としてはシェアハウスを2軒所有しているヤマダくんだが、現在の住まいである『バーデン⁻S』はまだローンがだいぶ残っている。もっとも、職場で感染者が出たために一時的に自宅待機となったアオノさんとイシザキくんは、あの後、再度のPCR検査で陰性となったため、今では通常通り出勤している。ふたりとも幼子を抱える一家の大黒柱であるから、仕事に影響がなかったのは不幸中の幸いと言えた。さすがに収入減は避けられないようだが、家賃が滞るようなことはなさそうだ。
 いっぽう、もう1軒の『バーデン⁻H』については、ローンこそ完済していたものの、家賃収入は今や半減していた。先日の203号室のタバタさんの感染騒動により3人の退去者が出た『バーデン⁻H』は、その後1ヶ月以上になるが未だに新規入居者が決まっていない。タバタさんはどうやら回復していたが、残念ながら職場復帰は叶わず、近々正式に退職することになるらしい。今のご時世では再就職もままならないだろうから、最悪の場合、彼女にもいずれ退去してもらうことになるかもしれなかった。無論、初めて入手したシェアハウスの最古参メンバーであり、かつては妻の親友であったタバタさんを追い出すような真似は、できればしたくはないヤマダくんだったが――シェアハウス大家さんである以上、もしもその時が来たら決断せざるを得ない立場にあった。
 とはいえ、それも、今考えても仕方がないことだった。タバタさんのことはタバタさん本人に任せるしかない。今のヤマダくんにできることは、彼女の再就職の成功を陰ながら祈るだけだ。――いや、それともうひとつあった。
「今はただ、自分にできることをするだけだよ。とりあえず、仕事にかかるから……」
 ヤマダくんは食べ終わった食器を流しに下げ、在宅勤務時に使っている個室に入った。
 時計の針は、8時45分を回ったところだった。彼の職場では、テレワークのコアタイムは10時から16時までと決まっていたが、1日8時間の上限までは各自の生活時間に合わせてある程度調整可能だった。ヤマダくん自身は9時から17時と決めている。
 業務用に設定してあるパソコンを立ち上げ、溜まっているメールをチェックしていく。緊急性の高い案件があればその場で対応するが、今朝は特に急ぎの案件もなかったため、とりあえず1日のスケジュールを組み立てる。社内イントラネットにログインし、今日の仕事を開始する――。
 ドアの向こうでは、洗濯機の回り出す音がかすかに漏れ聞こえていた。妻は妻で、1日の家事を滞りなくこなしてくれているはずだ。
 そう――うだうだ心配していても始まらない。なるようになるさ。万が一ならなかったら、そのときにまた考えればいい。余計な心配ごとを抱えるのは精神衛生上良くない。
 そんなふうに割り切って、ヤマダくんは目の前の仕事に没頭していった。
(つづく)

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