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第93話 ヤマダくん、先送りにする?

「……え!? マジか?」
 知らずしらず、そんなつぶやきが口から洩れる。語調からもひとりごとであることは明らかだったし、それほど大きな声を出したつもりもなかったのだが――そのつぶやきに、予想外の反応が返ってきた。
「――どうしたの……?」
 いかにも「おそるおそる」といった調子で、問いかけてくる声。その声を耳にしたとき、ヤマダくんは今さらのようにある事実に気づいた。
(……怯えている? 妻が、俺に――まさか……?)
 まさかとしか言いようがない。ヤマダくん夫妻は相思相愛、夫婦仲は円満と、ふたりを知る誰もが太鼓判を押すおしどり夫婦……の、はずだった。結婚してから2年半、まだまだ新婚といっても差し支えない時期だし、順調に子宝にも恵まれた。この秋に満1歳の誕生日を迎えるマユちゃんは、ふたりの愛の結晶だった。
 ……それなのに。
 妻の示したとっさの反応に、ヤマダくんは図らずもこれまでの自分のワークスタイル、ひいてはライフスタイルを顧みることになったのである。

 ――最近、在宅勤務の増えたヤマダくんは、仕事のストレスからか、妻の前でついつい苛立ったような言動を取ることが多くなっていたようだ。もちろん、妻に向かって直接八つ当たりなどしたことはないし、愛娘のいる部屋にピリピリした空気を持ち込むようなこともしていない――つもりだ。少なくとも、娘の面前で声を荒げたり、舌打ちをしたりすることのないよう、そこだけは気をつけている。
 しかし、彼が「仕事部屋」と呼んでいる私室にいる間は、必ずしもそうとは限らなかった。ヤマダくんとて管理職のハシクレだから、ときには部下を厳しく叱る必要もあったし、上司や他部署からの理不尽に思える命令や要望に対しては、せめて舌打ちの一つもしたくなることもある。会社のオフィスの中でなら、まだいい。部署が違うとはいえ、妻も同じ会社に勤める同僚であるから、社内でいくらか機嫌の悪いヤマダくんを見ても驚きはしないだろう。が、その場所が「わが家の中」となれば話は別である。
 わが家とは自分の「帰る場所」であり、家族とともに日々の生活を「過ごす場所」でもある。ヤマダくん自身も、ここしばらくは1日のうちでいちばん長い時間を過ごす場所となっていたが――産休以前から完全テレワークに切り替え、在宅勤務を続けていた妻にとってはそれ以上だ。近所のスーパーなどに買い物に行ったり、天気のいい日に散歩に出るなどのわずかな時間を除けば、朝起きてから夜眠るまでほぼ終日、家の中にいることが多い。したがって、わが家の中に機嫌の悪い夫がいた場合、妻にはどこにも逃げ場がないのだ。
 その事実に初めて思い当たり――ヤマダくんは愕然とした。もしかして、今まで、あんな調子で妻の前で不機嫌なそぶりを見せていなかっただろうか?
 仕事をしていれば、何もかも思い通りに進むことのほうが珍しい。たいていは、途中で予測不能なアクシデントに見舞われたり、思いがけないトラブルが勃発することになる。そのたびに、トラブルに対処し、計画を修正し、遅延をできる限りリカバリーするのが、管理職たるヤマダくんの仕事である。とはいえ、そこはやっぱり人間だから、部下や他部署の不始末の尻ぬぐいをしなければならない時など、そうそうニコニコしてばかりもいられない。
 そうした精神状態にあれば、心の奥底にイラっとしたマイナスの感情が芽生えるのは仕方のないところだろうし、表面上はいかに巧妙に押し殺していても、何かの拍子にふと顕われてしまうものだ。ヤマダくんのそんな感情曲線を読み取りながら、妻はそのたびに、さりげなく場を外したり、声がけするのをやめて自分の用事を後回しにしたりと、いろいろ気を遣ってくれていたらしい。そんなことにさえ気づかずにいたヤマダくんは、反省することしきりであったが――問題は、これだけでは終わらなかったのである。

「……ごめん。悪いけど、もう一度言ってくれないか――?」
 できるだけ冷静な口調を保ちつつ、ヤマダくんは妻に言った。声を荒げないことを意識するあまり、いささか冷たすぎる声音になっていたかもしれない。
「ちゃんと聴こえてたでしょう?」
 答える妻の声もいつもより冷ややかだった。これまで我慢に我慢を重ねてきて、ついに限界に達した、とでも言わんばかりの口調だった。
「……わたしは、ワクチン接種、受けないから」
 一語一語、区切るようにはっきりと妻は言った。
 ――7月に入り、ようやくヤマダくんたちの暮らすシェアハウス『バーデン⁻S』へも、地元自治体であるS-市からの「新型コロナウイルスワクチン接種クーポン券」が届けられた。アオノさんとイシザキくんの職場も、ヤマダくんたちの職場も、職域接種を実施するほどの規模の会社ではないから、自治体の主催する集団接種か、もしくは行きつけの医療機関での個別接種を受けるしかない。その二者択一であれば、日程や時間帯などに融通の利く個別接種のほうがベターだろうというのがヤマダくんの判断だった。
 S-市内の医療機関では今のところ、基礎疾患のない64歳以下のワクチン接種予約は受け付けておらず、予約受付開始はしばらく先になる見込みだった。それはそれで仕方がない。だが、「予約可能となる時期がしばらく先になる」ということと、「予約はしない、ワクチン接種は受けない」ということはまったく次元の違う問題であった。
「――なんで……?」
 少し間をおいて、ヤマダくんは問い返した。どんなに注意しても、どこかしら詰問するようなニュアンスになってしまうことは避けられなかった。
「なんで?」
 妻はオウム返しにつぶやいた。そのつぶやきに不穏なものを感じ取り、ヤマダくんはまじまじと妻の顔を見つめる。声に、かすかな苛立ちが混じっているように思えた。
「……そりゃあ、ワクチン接種を受けさえすれば絶対に安心、ってことはないかもしれない。でも、しないよりはしたほうがいいと思うんだけど?」
 努めて冷静に、ヤマダくんは言葉を継いだ。ネットニュースなどで、「ワクチン接種拒否」を主張する人が一定数いる、ということはヤマダくんも承知していた。だが、自分の家族にそういう考え方の人間がいるとは思ってもいなかったのだ。ニュースで見かける接種拒否派の人々は、「ワクチンを打つと流産する、妊娠しにくくなる」などの根拠不明のデマ(?)を信じ込んでいる妊娠中あるいは妊活中の女性が多いという。まさか、妻もそのテのデマに踊らされているのか? だとしたら、正しい知識を教えてやるのが夫として、家族としての自分の役割だとヤマダくんは考えていた。
「……副反応が、怖いの?」
 いきなり「ネットのデマ」云々と決めつけることは避けて、ヤマダくんはそんな方向から話を切り出した。
「……………」
 すぐには答えず、妻はちょっと考える表情になる。どう伝えたものか、思い悩んでいるようだ。ヤマダくんは黙って妻の言葉を待つ。
「………アナフィラキシーショック、ってわかる?」
 ややあって、妻はためらいがちに切り出した――。

 ――アナフィラキシーショック。
 ヤマダくんも、言葉だけは知っている。アレルギーの原因物質(アレルゲン)を体内に取り込むことで急激に引き起こされるアレルギー反応で、皮膚、粘膜、呼吸器、消化器、循環器など複数の臓器や全身に症状があらわれ、血圧の低下や意識障害、最悪の場合は生命にかかわることもあるという……。
「……小さい頃に一度、それで具合が悪くなって、入院したことがあったの」
 まだ、小学校に上がる前のことだったという。インフルエンザの予防接種を受けた後、急に気分が悪くなって、そのまま入院したことがあるらしい。もっとも、翌日には回復して退院できたそうなのだが――それが物心ついてから初めての注射体験だったこともあり、一種のトラウマになっているそうだ。その後、成人してからも注射する機会は避けてきたのだという。
「別に、隠してたわけじゃないんだけど……わざわざ言う必要もなかったから」
 少々気まずそうに妻は言った。たしかに、話の聞きようによっては、「注射が怖い」というのとあまり変わらない話に聞こえるかもしれない。いい年をして恥ずかしい、という思いもあったのだろう。しかし、それにしても――。
「……その、小さい頃の話にしてもさ。医者から『アナフィラキシーショック』とハッキリ診断されたわけじゃないんだろ……?」
 確認の意味でヤマダくんが問うと、妻は小さくこくり、と頷いた。
「だったら…………」
 と、畳みかけるように口を開いて――ヤマダくんはとっさに口をつぐんだ。
 ――妻の目に、涙がにじんでいることに気づいたからだ。
(――これは、無理強いしないほうがいいかもしれないな……)
 その場はひとまず、「わかった」と口にしたヤマダくんだったが、内心では必ずしも納得したわけではなかったようだ。
(……もう少しようすを見よう)
 とりあえず、やっかいごとは先送りにしようとするヤマダくんだった。
(つづく)

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