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第94話 ヤマダくん、胸を撫で下ろす

 ――いったい全体、何を考えているんだ!?
 声に出したわけではない。だが、そのやり場のない感情は、おそらく無意識のうちに態度に出ていたのだろう。反射的に妻が、びくん、と身をこわばらせる気配が、背中を向けていても伝わってくる。ヤマダくんは思わず顔をしかめた。
(……また、やっちまった――)
 たちまち、後悔の念が押し寄せてくる。どうもこのところ、情緒不安定気味だ。何かのきっかけで感情が激発すると、自分でも信じられないくらい怒りや苛立ちの念がこみ上げてくる。ストレスには違いない。だが、そのストレスを発散させる方法が自分でもわからない。
 きっかけはいつも、些細な事柄だった。平常時のヤマダくんだったら気にも留めない、というより、気づきもしないようなことである場合も多い。なのに、今はその、ほんのちょっとした事柄が、耐えられないほどの激情をたやすく引き起こすのである。
 平日の、午後7時過ぎ――。
 シェアハウス『バーデン⁻S』のヤマダ家では、家族揃っての夕食の時間だった。
 妻の手料理をせっせと口に運ぶヤマダくんと、最近ようやく椅子に一人で座れるようになった娘の傍らで、優しく話しかけながら離乳食を食べさせている妻。それは幸せを絵に描いたような一家団欒の一コマだった。
 だが――リビングで点けっぱなしにしているテレビから流れる7時のニュースを、見るともなしに眺めていたヤマダくんは、突然、言いようもない怒りを覚えたのであった。

 怒りのきっかけは、当たり前といえばあまりにも当たり前なニュースの映像だった。絶賛――とばかりも言えない、実際には賛否両論ではあったが――開催中の東京パラリンピックで、日本人選手の活躍を伝えるニュース映像の中に、ほんの一瞬、観客席が映ったのを目にしただけで、ヤマダくんの中に理不尽極まりない怒りが生まれた。
 観客席には、観戦中の小学生らしい集団が見えた。それぞれソーシャルディスタンスを確保した上で、きちんとマスクをつけて、いかにも「感染防止対策は万全です」とアピールしながら観戦している小学生たち。冷静に考えれば、これだけを見て怒りを覚えるいわれはないだろう。にもかかわらず、ヤマダくんは怒った。許せないと感じたのである。
(……何故、あの子たちはあそこにいるのか――!?)
 ――パラリンピック教育の目的は「障がいのある人々への理解や気づきを生み出す教育システムに、パラリンピックの理念と価値を統合させること」だということはヤマダくんも理解している。小・中学生たちの観戦は、未来を担う子どもたちにそのことを学んでもらうためだということも承知していた。
 しかし、それは本当に「今」でなくてはいけないのか?
 コロナ禍の中、緊急事態宣言が出される中で、一部の根強い反対を押し切って開催された東京オリンピックは、日本人選手のメダルラッシュに沸きながら当初の予定通り閉幕した。つい先日まで五輪開催の可否を論じていたマスコミは、手のひらを返したように日本人選手たちの熱闘を褒めちぎり、調子に乗ってはしゃいだ。中には、どこぞの市長のように羽目を外して総スカンを喰らったお調子者も出たが、「成功か、失敗か?」を問われれば、おおむね「成功した」というのが世間の評価であったようだ。
 それはまだいい。いや、「いい」と言って良いものかどうかはまだわからないものの、終わったことは今さらどうしようもない。
 しかし、その一方で、新型コロナウイルスの猛威は、今なお継続中の緊急事態宣言などどこ吹く風とばかりに、より一層激しさを増していた。連日発表される新規感染者数はうなぎのぼりに増え、一日ごとに過去最多を更新しているありさまだ。従来型に比べて感染力の高いデルタ株に置き換わったことで、すでに規定のワクチン接種を済ませた人々でさえ、安心できないとも言われている。おまけに、デルタ株より強力とも伝えられるラムダ株までも、五輪期間中に日本に入ってきているという。
 総理大臣も都知事も、「オリンピックは無観客で開催されたため、現在の感染拡大とは無関係」「開催期間中は人流が減少した」「むしろ、ステイホームに効果があった」と口を揃えて反論しているが、その言葉通りに受け止めている国民がはたしてどれほどいるだろうか。大多数の国民は、口に出さないまでも心の底で感じているのではないか? 現在の感染拡大とオリンピックとは、決して無関係などではない、と――。
 しかも、五輪期間中からその後の盆休み期間にかけて、日本では天候不順が続き、全国各地で豪雨による自然災害が発生した。復旧作業もままならず、今も不自由な避難生活を強いられている国民も多い。そもそも「復興五輪」と謳いながら――謳うことさえ忘れていた件はさておき――この国はますます、復興から遠ざかっているとしか思えない。
 そんな状況で、いくら事前に決まっていたことだからといって、子どもたちにパラリンピックを観戦させるとは、いったい何を考えているのか――。テレビを見てヤマダくんが感じた怒りとは、筋道を立てて分析すれば、要するにそういうことだったのである。

「……ごめん、何でもない」
 ヤマダくんは努めて声を抑えると、ふり返って妻と娘に微笑みかけた。たぶん、ぎこちない笑みであったには違いないが、妻のこわばった表情はその言葉でわずかにゆるんだ。
「美味しいよ、これ――」
 さすがにあざといかなと自分でも思いつつ、そう言って無理やり話題を料理に向ける。いや、美味いことはたしかに美味いのだ。今夜の夕食は、ヤマダくんの好物のおかずだった。
「……そう?」
 妻もかすかに目を細め、笑顔をつくってみせた。
「――マユもずいぶん、食べられるようになったな」
 ヤマダくんは愛娘を見やりながら続ける。まだまだ食べこぼしは多いが、妻がスプーンに掬っては口元に運ぶ離乳食を、娘は口をぱくぱくさせて懸命に咀嚼している。その口元をぬぐってやりながら、妻は嬉しそうに言った。
「本人はまだ、おっぱいのほうがいいのかもしれないけど……」
 一瞬のうちに、我が子の成長を慈しむ母親の表情になっていた。
 そんな妻と子の姿を見ているうちに、ヤマダくんはつい先ほど、自分の中で芽生えた怒りの感情が、嘘のように完全に消え去っているのを感じた。やはり、家族揃っての夕食にはこういう雰囲気のほうがふさわしい。というか、こうでなくてはいけない。そう自覚すると、とたんに、食事の味もさっきよりずっと美味く思えてくるから不思議なものだ。
ふと思いついて、ヤマダくんは口にしてみる。
「じゃ、今度、パパが食べさせてみようか?」
「そうね。……そのうちにね」
 どうやら、まだ完全には信用してくれていないようだ。まあ、実際、乳幼児のうちは誤嚥などの危険もあるというから、不器用なパパの出番は、もうしばらく来ないかもしれないが。
(……そういえば、アオノさん家やイシザキくん家では、いつごろから父親がご飯を食べさせていたんだろう?)
 ひとつ屋根の下で暮らすシェアメイトたちの顔を思い浮かべる。無論、毎日のように顔を合わせてはいるのだが、コロナ禍以降、ハウス内の交流もすっかり疎遠になってしまっていた。奥さん同士はまだしも、連れ立って買い物に行ったり、ちょっとした用事の際にはお互いに子どもの面倒を頼んだりしているようだが、亭主同士の男のつきあいはこのところ、とんとご無沙汰だった。近々、顔を揃えてひさびさに酒でも酌み交わしたいものだ――。
 そんなことを考えながら――ヤマダくんはもう一つ、思いついたことを妻に提案してみた。
「なぁ。――もうじき、マユの誕生日だし……」
「……なに?」
「ひさしぶりに、ハウス内でパーティをやろうかと思うんだけど――どう?」
 唐突な提案に、ちょっとだけ考えこむようすを見せたものの、妻はにっこりと頷いた。
「うん……こんど、都合を聞いてみるね」
 その妻の返事に、思わずほっと胸を撫で下ろすヤマダくんだった。
(つづく)

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