シェアハウス コロナ 空室 募集 育児休業 職場復帰

第96話 ヤマダくん、自分に言い聞かせる……

「おはようございます。――あ、ヤマダ係長、奥様の……」
 朝、出勤するなり、総務課の女性社員が声をかけてきた。相手の用件を察して、ヤマダくんはすまなそうに軽く頭を下げる。
「ああ、ゴメン。本人から連絡入れさせますから――」
 返事はわかっていたので、ヤマダくんから伝えてもよかったのだが、こういうことは本人の口から伝えるべきだろう。ただでさえ、身内以外と会話する機会が減っているのだ。業務連絡とはいえ、会社の人間とコミュニケーションを取るのはリハビリにもなるはずだ。あとでLINEでも入れておこう――などと考えつつ、ヤマダくんはオフィスの自席に向かった。
 ――11月下旬。ヤマダくんの職場は、ほぼ緊急事態宣言前の出社率に戻りつつあった。一時は「出社率50%以下」のテレワーク化目標が掲げられていたのがウソのような変わりようだが、これも世の常か。そうだ、テレワークといえば……。

「――最初のうちはテレワークでもいいから、って……」
 先週末、妻と交わした会話を、ヤマダくんは思い出していた。
 妻宛てに、職場復帰の打診が来たのだという。
 一応、会社の規定では最長で2年間の育児休業が認められている。だが、それぞれの家庭の事情もあるから、希望すれば早期復帰も可能だ。ちょうど産後1年を過ぎたあたりのタイミングで最初の連絡があり、今回が2度目だった。そろそろ、少しずつでも仕事の感覚を取り戻してみてはどうか、というのである。
「で、どうしたいの?」
「うん……今はまだ、ちょっと――」
 妻がそう言うので、ひとまず今回は見送ることになったが、次はおそらく年明けあたりにまた連絡がくるだろう。あまりせっつかれるのも歓迎しないが、逆に会社から何も言ってこなくなったら「戦力外通告」ということだから、それはそれで心配なわけだが。
 いずれにせよ、ヤマダくんとしても、今すぐ妻に働いてもらわなければならないほど家計が苦しいわけでもない。ヤマダくんたちのシェアハウス『バーデン⁻S』では、同居しているアオノ家、イシザキ家とも、奥さんは専業主婦だから、妻が働きに出ても娘のマユちゃんの面倒を見てくれるアテはあるのだが――肝心のマユちゃんがまだ、かなり人見知りが強く、母親が離れるとたちまちぐずりだすところがあった。子どもたちにしても、アオノ家のノゾミちゃんはともかく、イシザキ家のソウタくんはそろそろワンパクざかりになってきて、たまにふたりきりになったときなど、マユちゃんが怖がるそぶりを見せることもあった。
(――難しいもんだな……)
 傍から見れば十分に恵まれた環境であり、ゼイタクな悩みには違いないと思いながらも、ヤマダくんとしてはそんなふうに感じずにはいられない。完全なワンオペで子育てしている家庭や、シングルマザーも珍しくない今のご時世で、至れり尽くせりの家庭環境であることは、妻にしてもよくわかっているはずだ。ましてや、昨今のコロナ禍で、職場を失った人も世間にあふれているというのに……。
 だが、「ヨソはヨソ、ウチはウチ」というのは、妻の口癖でもあった。恵まれている他人の家庭を羨みもしないかわり、自分たちよりもっと悲惨な状況にある家庭があるからといって、必要以上にガマンすることもしない。ヤマダくんはそういう妻の気質を愛していたし、ある意味、尊敬もしていた。そんな妻だから結婚しようと思ったのであり、今の生活に何の不満もなかった。
 ともあれ――少なくともしばらくの間は、ヤマダくんの一馬力で家計を支えなければならなかった。ヤマダ家にはもうひとつの収入源――すなわち、1軒目のシェアハウス『バーデン-H』からの家賃収入があるのだが、こちらはこちらで、じつは少々困ったことになってきていた。と、いうのは――。
 今年の9月以降、『バーデン-H』の空室がなかなか埋まらない、という状況が続いていたのである。もともと、『バーデン-H』は満室で8人――1階に男性3人、2階は女性5人という入居者で稼動していた。2年前の春にヤマダくん夫婦が退去した後、まもなく空室は埋まり、そのまま入居者が入れ替わることもなく安定していたのだが――今年の3月、203号室のタバタさんがコロナ陽性と診断されたことで一気に状況が変わった。
 当時はワクチン接種も始まっておらず、当時の入居者の半数は退去した。「感染者の出たシェアハウス」ということが口コミで広まって、なかなか次の入居者も決まらず、シェアメイトリーダーを任せたイトウくんも頭を抱えていた。
 無論、ただちにハウス内は完全消毒し、その後も感染対策は徹底させてきたつもりだったが、この業界、一度悪いイメージがついてしまうと、挽回することは難しい。しかも、ほどなく緊急事態宣言が始まり、入居希望者の面接もままならなくなってしまった。
 じつは1、2度、ZOOMを使って面接したこともあったのだが、やはりお互いの空気感を掴めないため、どうも勝手がわからない。そこで、管理会社に面接代行を頼むことにしたのであるが――折悪しく、ヤマダくんとは長年のつきあいで全幅の信頼を置いていたオオシマ女史が、この春退職してしまった。彼女は『バーデン-H』の立ち上げ当時からの担当で、何かと世話になっており、ズブの素人だったヤマダくんにハウス運営のイロハを叩きこんでくれた恩人だった。後任の担当者はいるが、電話一本で交代のあいさつをしたきりで、ヤマダくんは顔を合わせてすらいない。何度か会っているイトウくんから報告は受けていたが、どうやらマジメだが融通の利かないタイプらしく、万事ちゃらんぽらんのイトウくんとはあまり相性がよくないように感じられた。
 そんなわけで、9月の緊急事態宣言明けと、つい先日、11月上旬の2度、ヤマダくんはひさしぶりに『バーデン-H』に顔を出してみたのだが……。

「――なんだか、来るたびに寂れていくような気がするな……」
 ヤマダくんが思わずボヤいたほど、『バーデン-H』は閑散としていた。無理もない。現在の入居者は、シェアメイトリーダーのイトウくん以下、わずか4人。101号室のイトウくん、102号室のマツナガくん、201号室のカトウさん、203号室のタバタさんだけだ。
 9月の訪問時には、ヤマダくんの時間の都合もあって20分ほど滞在しただけだったが、それでも、掃除の行き届いていないことはひと目でわかったし、昼間ということもあって人の気配も感じられなかった。それで、前回の訪問では夕方から夜まで時間をかけて、じっくりようすを観察することにしたのだが――。
「…………すいません」
 申し訳なさそうにイトウくんが頭を下げる。かつて、ヤマダくんがここから引っ越すことになった日には「大丈夫っすよ。万事任せてください!」と胸を叩いたものだったが、変われば変わるものだ。
 見れば見るほど、ひどいありさまだ。共用のキッチンにはビールの空き缶が無造作に置かれていたし、部屋の四隅は埃が積もっていた。おまけに、1階の103号室と2階の202号室は、空室期間が続いているのをいいことに、いつの間にやら隣人たちの物置にされていた。これでは、仮に入居希望者が見学に訪れたとしても、とても見せられたものではない。
 もちろん、「見学者が来るときにはちゃんと片づけますよ。でも、誰も来なかったもんですから」というイトウくんの言葉にウソはないのだろう。だからといって、許せるものではなかった。
「いいかい? キミたちが支払っている家賃は1部屋分だけだ。誰も使っていないからといって、物置にするのであれば、もう1部屋分家賃をもらわなければ、こちらは割に合わないんだよ」
 ヤマダくんは敢えてシビアな言い方をした。オーナーとしては当然の要求なのだが、イトウくんはやや鼻白んだ。彼の感覚としては、物置として占有しているつもりは毛頭なく、空いているスペースに一時的に物を置かせてもらっているだけ、という認識なのだろう。もしかしたら、相手がかつて一つ屋根の下で暮らしたヤマダくんだけに、オーナーという感覚を持ちづらいのかもしれない。
「まあ、こちらとしても、1部屋分の家賃しかもらっていないのだから、空室まで掃除しろとは言わない。日常の掃除は自室と共用部だけでいい。ただ、空室を使ったのなら、せめて、掃除くらいは自分でするのが当たり前だろ?」
「……まあ、それは」
 イトウくんは生返事する。どうも、まだわかっていないみたいだ。ヤマダくんはもう一度、今度は少々語気を強めて言ってみた。
「今回はペナルティだ。ここも含めて、他の空室も掃除をよろしく頼む。もちろん、キミひとりでやれなんて言わない。他の入居者の皆にも声をかけて、全員で今週末、空室を全部掃除しておいてくれ。来週からまた、入居者募集を本格的に再開するから」
「でも――来ますかね、新しい人……?」
「それはこっちで何とかする。だがら、そっちはそっちで、今できることを頼むよ」
 そう言いながらも、ヤマダくんにアテなどなかった。だが、このままではどうしようもない。自分自身に言い聞かせるように、ヤマダくんは顔を上げて言った。
(つづく)

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